2021年11月30日火曜日

【転載】京都新聞2021年10月12日掲載 季節のエッセー(26)

 「子ども時代」

ずいぶん日の入りが早くなった。

今年は外出の機会が少なかったからか、あるいは雨が多かったせいか、例年のような猛暑を感じる間もなく、風が涼しくなってきた。気付けばベランダの朝顔も勢いを失っている。

 すっかり秋だ。

ところでネンテン先生こと坪内稔典氏によれば、季節の変化を意識するのは実はとても不自然な行為だという。
子どもは季節の変化に驚いたり、感動したりはしない。それが自然だ、というのだ。人が季節を意識するようになるのは、環境に影響され、気力の衰えを自覚する中年以降だそうである。

俳句をやっていると普段でも季語を意識することが多いが、自然なこと、ではないかもしれない。たしかに子ども時代は、数ヶ月単位で周りの風景を観察して、変化に気付くといったことがない。目の前のことに一生懸命で、それどころではないからだ。

そういう私は極端に物心がつくのが遅く、子ども時代の記憶があいまいなのだけれど、子どものころは歩くのがとても遅かった。
遅いというより、歩かないらしい。
立ち止まっては石を拾い、よそ見をして脇にそれ、座り込んでおしゃべりを始める。幼稚園までの送り迎えで、大人の足なら片道十五分か二十分ですむ道を、母は二時間以上かけて付き合っていたそうだ。

そのころの断片的な記憶のひとつが、幼稚園の近くにあった「ライオンのいる家」のことだ。

その家には大きな庭があり、石垣の透き間から、中をのぞくことができた。
その庭の奥に大きな檻があって、一度、かすかに茶色い獣の背中が見えたのだ、たしか。

それからは毎日、庭をのぞきこむのが日課になった。しかし檻の中になにかいる気配はするものの、姿をしっかり見ることはできなかった。

もちろん本当にライオンだったかどうかは、今ではよくわからない。
いや、おそらく当時から、本当にライオンだとは思っていたわけではなかった。
ライオンならどうしよう、ライオンかもしれない、ライオンだったら面白い。人目や常識より、その面白さを優先してしまう。
たとえその正体が、ただの大型犬だったとしても、あの時代、「ライオンの家」は、毎日の楽しみだった。(俳人)

【転載】京都新聞2021年9月6日 季節のエッセー(25)

 「秋の虫」

書斎で仕事をしていたら、パサッと音がして、何かが目の前に落ちてきた。
よく見ると積み上げた書類の端に、黒、というより焦げ茶色の小さな虫。
どうやら開けていた窓からコオロギが入ってきたらしい。
部屋の明るさに驚いているのか、じっとしたままなので、ポリ袋でつまみあげ、ベランダに逃がした。

それから三日ほど、「彼」は我が家のベランダで、夜になると盛大に鳴き声を響かせていた。
「リッ」に濁音がついたような短い音を連続でくり返し、ほとんど休まない。だいたい夜の七時から鳴きはじめ、夜中は鳴きっぱなし、朝には止んでいる。
イソップ童話ではアリと対比されて音楽好きの怠け者になっているが、身近にいるときわめて勤勉だし、定時労働である。
いや、イソップ童話はキリギリスだったか。

鳴き声をたよりにネットで検索してみたところ、オカメコオロギの一種ではないかと思う。移動したのか、力尽きたのか、「彼」の鳴き声はいつの間にか止んでしまったが、前途に幸多かれと願う。

コオロギを漢字で書けば蟋蟀。音読みすれば「しっしゅつ」。
見た目にはやたらとヒゲが多い字で、小さく引き締まったバッタ的な姿に、通じるような、そうでもないような。
「悉」も「率」も羽音をあらわす音の字を虫偏と組み合わせた、いわゆる形声文字で、特に意味はない字らしい。辞書には、古くは今でいうコオロギを「きりぎりす」、キリギリスを「こほろぎ」と呼び、「蟋蟀(しっしゅつ)のきりぎりす」という言い回しがあったとされる
あるいは、「こほろぎ」は秋に鳴く虫の総称とう。

そういえば秋の歳時記にはチャタテムシという虫も記載されている。
ダニかシラミに近い小虫で室内のカビを食べるそうだが、障子などにとまって体をこすりつけ、お茶を点てるような音をたてるらしい。歳時記ではもうひとつ「小豆洗い」の異名があり、やはり音にちなむそうだ。
これは同名のお化けがいて、谷川や井戸端で、誰もいないのに小豆を洗う音が聞こえるという話が全国に伝わる。
出没場所も異なるし、お化けの正体が虫だというわけではなく、カサカサいう音を「小豆を洗う音」に聞きなす心性が共通しているのだろう。
秋の音もさまざまだが、聞く人の側が、それぞれに空想を広げてきたわけだ。(俳人)

コオロギの出自は妖怪研究家 小西雅子 青松虫の女「窓と窓」