まともなネタがないまま8月が終わってしまうので、過去の拙稿「山口誓子『構橋』を読む―後期誓子俳句読解の試み―」を転載してみることにしました。
もともとこの文章は、わたなべさん主催のメール句会から発生した冊子『ろくぶんぎ』第1号(発行わたなべじゅんこ、2009.05.16)に掲載してもらったものである。
この小冊子は句会参加メンバーの内々で作った限定非売品である。今回は特に許可をもらってここに転載することになった。
ただし件の小冊子では、紙幅と編集の都合上、私が提出した原稿とは若干異なるものが掲載された。そのため論旨は明快になったが一部公開されなかった部分もある。
今回はそれらの異同箇所をふまえ、掲載分に最低限の加筆修正を加えることにした。例句は赤で示した。
またネット掲載の特性を考え、新たに改行を増やしたため、ただでさえ長いものが更に長くなってしまった。長さだけで特に何もない駄文だが、おおかたの叱正を賜れば幸いである。
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山口誓子『構橋』を読む―後期誓子俳句読解の試み―
俳句文芸史上における山口誓子の功績については今更確認するまでもない。
都会趣味、海外詠、連作俳句、独自の造語など新境地を開拓し、虚子をして「辺境に鉾を進める」「征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめ、秋桜子とともに新興俳句運動をリードして「写生構成」による作句法を説き、戦後は桑原武夫「第二芸術論」(昭和二十一年十一月)に反発する形で『天狼』を創刊(昭和二十三年一月)、「酷烈なる俳句精神」による「根源俳句」を提唱し、「即物具象による構成・構造の新風を樹立」(『現代俳句大事典』)した。
しかし、『天狼』創刊以降の誓子俳句の評価は決して高いとは言えない。誓子の深い理解者であった文学者、小西甚一氏は誓子俳句のピークを昭和二十年前後と見ており、
戦後は、残念ながら、この水準を維持することがだんだん難しくなってゆく。誓子ほどの天才でも――である。
『俳句の世界』講談社学術文庫
と書いている。
誓子俳句が戦後「面白くなくなる」というのは、すでに通説と言ってよく、坪内稔典氏はさらに過激に言う。
写生構成は現代の俳句の最も基本の方法である。だが、誓子におけるそれは弱点を持っていた。その弱点が、次第に大きくなり、誓子の俳句からかつての新鮮さを失わせる。戦後、殊に一九五五年(昭和三十)ごろから後の誓子は無惨である。そこにはかつての新鮮きわまる誓子の面影はない。
『俳句発見』富士見書房
こうした鑑賞が的を射ているかどうか、速断は避けたい。
だが誓子という人は明治三十四年(一九〇一)十一月三日から平成六年(一九九四)三月二十六日に亡くなるまで九十二歳という長命の持ち主であって、坪内氏のいう「無惨」な時期を、実に四十年も過ごし、俳句を発表し続けていたことになる。
ちなみに誓子の全十八冊の句集(『大洋』『新撰大洋』は一冊とする)のうち、昭和三十年以降のものは九冊。単純に言って半分である。
当たり前だが、誓子自身は自分の句を「無惨」とは思っていなかっただろう。戦後の誓子俳句に変化(もしくは低迷?)が見られるとするならば、誓子自身はそれをどう捉えていたのだろうか。一方的に切り捨てる前に、きちんと向き合ってみなければならない。
と大上段に出たが、この問いに対して、筆者の力はあまりに不足している。本来なら『凍港』以下の句集とその初出に当たり、著作や俳論を軸に議論を進めるべきだろう。また同時代の作品、俳論、さらに社会背景などさまざまな角度からも検証する必要がある。
本稿ではまず、準備体操として、昭和四十二年三月に出版された『構橋』を読み、思いつくことを書き付けておこうと思う。
『構橋』は昭和四十二年三月、春秋社から誓子句集三部作の第一作目として刊行された。同年五月には『方位』、同年七月に『青銅』と連続して出版されている。
掲載された句はそれぞれ、昭和二十七年~三十年、三十一年~三十四年、三十五年~三十八年、の作品で、昭和三十年一月刊行の『和服』(昭和二十三年十月~昭和二十六年十二月の作品)に続く、十二年ぶりの新句集である。
時期としてはまさしく坪内氏のいう「無惨」な時期の始発にあたっており、後期誓子俳句を見直す入り口としてふさわしいのではないかと思う。
さっそく内容に入りたいのだが、『構橋』はまずタイトルが難解である。試しに『広辞苑』と『大漢和辞典』を引いたが、載っていない。仕方がないので誓子自身の解説を引く。
「構橋」は構築された橋である。私は曾て中村憲吉の歌集『林泉集』にこの語を含む作をいくつか讀んだ。爾来、私は「構橋」の語に惹かれてゐた。(略)
十二年の滞留を終つて、伊勢から阪神間の西宮に轉ずるに當つて私は橋をわたらねばならなかつた。その橋を私は吊り橋のやうな不安定な橋ではなく、構橋のやうな屈強な橋と思ひたかつた。永く伊勢に潜んで貯へた力を發揮するために、その屈強な橋を渡りたいと思つた。
「構橋」の語には私の祈りが籠められてゐる。
歌人の造語だったようである。句集の一句からとった題名ではなく、誓子自身、この語に託して昭和三十年前後を「転機」と捉えていたのだろう。
では内容に入ってゆく。
夜光る蟲の悲しみ身より溶け 昭和二十七年
眞黒な硯を蠅が舐めまはる 同
山口誓子、五十一歳。「蜥蜴の誓子」とも呼ばれる誓子の、小生物に対する偏愛は健在。
春濱に兄弟倒(こか)しあへる愛 同
冬濱に噛みあふ犬よ殺しあへ 同
死したるを棄てて金魚をまた減らす 同
これらの句作には三つの重心がある。「兄弟」「犬」といった対象と、「春濱」「冬濱」という物、その<二物衝撃>を主観的に把握する作者。情景だけでなく作者の主観的な把握を明確にするところに特徴があるが、その把握が直截的であり、不気味な印象を与える。
俳句評論家、山本健吉によれば、昭和十五年の「箱根山中」を機に誓子俳句は「近代俳句の旗手としての素材拡張時代」から「内面的な心の裡にレンズの焦点を当て出した第三期」(山本『現代俳句』)に入っている。
また『星恋』(野尻抱影との共著)の著作もある「星好き」誓子には星の句も多い。
寒月が星座の間明るくす 同
寒昴獵夫その犬といふ順序に 同
「海を出し寒オリオンの滴れり」や「寒雨降りゐしにオリオン座大犬座」という作品もある(ともに二十七年)。現行の歳時記は星座を季語と認めていないため、他の季語と組み合わせたり、「寒オリオン」などという造語を用いたりしている。
この時期は定型を逸脱する形が多いのも特徴である。後記には「現在の私は十七音を嚴守し、五七五の調べを重んじてゐるから、現在から見れば許し難い句も混つてゐる。すこしは手を加へたが、手を加へらぬ句はそのままにして置いた」とある。
開放の夏期大学を覗くもの 昭和二十八年
詞書に、「大宅壮一来る」。「句による自伝」(『財政』昭和三十二年)にも「八月に入って大宅壮一が鈴鹿市の夏期の大学講師としてやつて来た」「畳の上に寝転びながら懐旧の談に耽つた」とある。大宅壮一はいわずとしれた評論家、ジャーナリスト。三高時代に誓子と同級で、もっとも親しい友人だった。
颱風に妻は痩身飛ぶ飛ぶと 同
颱風に遅るる妻を目で手繰る 同
高潮と流れ金魚の行方知れず 同
詞書「颱風」。この年九月、誓子は台風十三号に見舞われる。夕方頃、高潮を避けて家を出て避難、翌朝帰ると自宅は大破し、「書斎に闖入した高潮は……おびただしい蔵書と金魚を呑んだのである」(「句による自伝」)。
大きな被害を受けた誓子だが、句や自伝から見られる調子は明るい。結局このことがきっかけとなり、誓子は長年療養生活を営んだ伊勢を出て、西宮市苦楽園に移ることになる。
鵙は尾をくるりくるりと吾が首途 同
詞書「苦樂園抄」。決して巧い擬音とは思えないのだが、誓子俳句のイメージを裏切る明るさ、軽やかさである。誓子はすでにこの年三月から小旅行を繰り返しており、体調は回復していた。復活した誓子は療養地を離れ、精力的な活動を始める。
息を矯め聖誕祭の燭吹き消す 昭和二十八年
大和また新たなる國田を鋤けば 昭和二十九年
伊勢時代と比べ、総じて句風が明るい。無邪気、と言ってさえいい。
淡路小國夏川の碩荒れ 昭和二十九年
渦潮を見に行く舟も錨揚ぐ 同
渦潮の怖さ立ち上がりて怺(こら)ふ 同
渦潮の中百疊を敷く平 同
渦潮を出て潮筋に乗りゆくのみ 同
詞書「淡路行」。昭和二十九年十一月、誓子は橋本多佳子、美代子らと淡路を旅行する。後記に、「すこしまとまつて作が出来た。健康になり、「俳句の眼」が据わつて来たのか」とある。
確かに膨大な群作であり、「渦潮」だけで十五句、全体でおよそ五十句が並ぶ。
ちなみに誓子は秋桜子とともに連作の理論的実践者として知られるが、彼によれば連作は、
- 「個」の俳句の創作過程
- 「個」の俳句の構成過程
の二段階を経ていなくてはいけない(「「連作俳句は如何にして作らるゝか」『かつらぎ』昭和七年十月)。
また「連作俳句は感情のシムフオニイである」「相互に感情が交流しあはない句は連作俳句ではない」(「詩人の視線」『ホトトギス』昭和八年四月)とも言う。
この定義に「淡路行」を照らして見ると、乗船から渦潮を見た感動、帰港まで時系列上に並べられているが、句相互の「感情の交流」は見えにくい。
むしろ「渦潮」という題に対して作られた群作という観がある。
さらに二句目「錨揚ぐ」は情景描写にすぎないし、三句目「渦潮の怖さ」も、渦潮に対する感情の素直な露出が見られるばかりで、誓子の手応えに比して、決して巧い俳句とは思えない。
しかし同年には次のような句もある。
飲み干して冷やしラムネが身についたと 昭和二十九年
秋晴よ犬は股間を毛に包み 同
鰯雲日本に死すること辭せず 同
これらの句は「写生構成」「知的構成」というよりも、作者の発見を核に季語を配した、「取り合わせ」の技法が表に出ている。もっともその後「取り合わせ」が主流となるということではなく、
闇に焚火いかなる處何の爲 昭和二十九年
交み斑猫忽ち別の行動へ 昭和三十年
身を扁(ひらた)くし青蜥蜴吾に媚ぶ 同
足先で授乳喜ぶ緑世界 同
という作者の主観的把握がわかりやすい句風が続くのだが、この時期誓子が作風を模索していたのは確かである。
ちなみに「足先で」の句は「航」の詞書があり、義弟、山彦の長男、幼い末永航を詠んだ句である。航は私の伯父に当たる。
この前年、主宰誌『天狼』は創刊五年大会を開き(昭和二十八年十一月)、自身は句集『和服』をまとめ(昭和三十年一月)、その流れの中で山本健吉、中村草田男ら反・天狼派との「根源俳句」をめぐる論争が華やかに展開していた。その渦中にあって誓子は
向日葵立つ方位未確の山の上 昭和二十九年
という句境だった。しかし誓子は、昭和三十年十二月の土佐旅行を経験することで「未確の方位に進むべき方位を見出した」という(「句による自伝」)。
その「方位」とは、
この床几吾も休めど遍路のもの 昭和三十年
海道を暮れて歩ける遍路ひとり 同
といった句境であった。(「土佐行」)。
これらは作者の主体的な把握は明確だが、伊勢時代の作品のような特殊な感情の露出はない。また素材はかつて誓子が好んだような新素材ではなく旅行先で発見されるものであり、先述した「群作」志向も続いている。誓子は完全に転機を迎えた、といってよい。
以上、『構橋』の句作を中心に、誓子俳句の変化を見た。誓子自身はこの変化を肯定的に捉えていたようだが、戦前の誓子俳句を期待すると肩透かしをくうのは確かだろう。この「方位」は、続く句集『方位』の題名として引き継がれ、後記誓子俳句が本格的に始動する。
『方位』以下の句に関しては、いずれ別稿を期したい。