2021年8月30日月曜日

【転載】京都新聞2021年8月2日 季節のエッセー(24) 

 「お化けの季節」

パンデミック前の二〇一九年、南座で通し狂言『東海道四谷怪談』を初めて観た。
健気な貞女から、追い詰められて幽霊へ変貌するお岩の凄惨さが印象的だった。

怪談話が夏の風物詩になったのは、江戸時代後期には、お盆の時期に怪談芝居を演じることが多かったからだといわれる。その理由も、冷房もない狭い芝居小屋では客を呼ぶことが難しく、大物ではない若手や助演格の役者で実験的な芝居を掛けることが多かったからだという。
本物の水(本水(ほんみず))を使った見せ場や、戸板返しなどの手法は、そうした夏芝居の苦境から生まれた奇策だそうだ。
私のように季節を問わずお化け話を追いかけているとあまり気にしないのだが、世間では怪談に準じて「お化けといえば夏」という常識が定着しているようで、夏に合わせてお化け関連のイベントや特集が増える。
今年はありがたいことに、某俳句誌から、八月号の特集として「異界を詠む」という特集記事の依頼をいただいた。(*)

好きな分野なので以前から注目していたが、お化けに関する俳句は案外、冬の句が多い。雪女、狐火は冬の季語だし、(こがらし)や天狗が築く一夜塔 泉鏡花」のような句もある。凩の吹く寒夜に神通力を発揮する天狗。江戸趣味を愛した幻想小説家らしい句だ。

もちろん冬限定ということはない。坪内稔典著『季語集』では夏の季語に「河童」をあげている。芥川龍之介の命日、河童忌のイメージもあるだろう。
河童は江戸時代から人気者で、先の特集ではふれられなかったが、現代川柳の川上三太郎にも、河童をテーマにした連作がある。「満月に河童安心して流涕(なみだ)」「君を得て踊るよルムバルムバ河童」「この河童よい河童で肱枕でころり」と硬軟とりまぜて自由自在な詠みぶりが楽しい。

今回発見だったのは、中勘助にお化け俳句が多かったこと。全集をめくると、決して多くはない俳句作品のなかに「夜がらすやうぶめさまよふ山の町」のような不気味な句がある。夜がらすは、夜に悪声で鳴くゴイサギのこと、うぶめは難産で死んだ女性の霊だから、これは夏の一句か。
他にも謡曲や昔話から着想したらしい
「山姥の木の葉のころも秋の風」「諸行無常茶釜は一夜狸なり」のような句がちらほら。中勘助も、季節を問わずお化けを好んでいた仲間らしい。

*『NHK俳句』2021年8月号にて、特集「異界を詠む ~妖怪と俳句の世界」という記事を担当、解説と例句鑑賞、年表作成などを行いました。


2021年8月11日水曜日

【転載】京都新聞2021年6月28日 季節のエッセー (23)

 「座」

おかげさまでオンライン三昧である。
先日は、この数年研究が盛り上がっている『徒然草』に関するシンポジウムに参加した。全国から三〇〇人以上が視聴したそうだ。
小川剛生氏らの研究によれば、作者の兼好法師はもと関東の武士出身と考えられるが、京都で土地を購入するなど生活基盤を安定させ、歌人や能書家として、積極的にいろいろな人々と交際していたそうだ。「遁世者の文学」とか「無常観の美学」といったイメージがずいぶん変わってしまうが、当日はそうした実態をふまえつつ、古典や仏教思想に通じた文章をどう読むかが議論され、月並だが刺激的なシンポジウムだった。
その前週は、所属していた俳句グループ「船団」のイベントがあった。「船団」は、ネンテン先生こと坪内稔典氏が中心の俳句グループだったが、二〇二〇年六月をもって解散(ネンテン先生いわく「散在」)になり、記念イベントが昨年開催される予定だったもののパンデミックの影響で延期になり、さらに今年もオンラインになった。
なお、今回は旧「船団」会員の句を集めた本の出版記念会という位置づけで、解散記念の集会は改めて来年、企画されるらしい。
当日は、テレビ会議アプリでつながった参加者がネンテンさんの指名で順番に発言し、近況を報告した。
同じ会員とはいえ、ほとんどつきあいのなかった人が多いのだが、久々に会う人が意外な活動をしていたり(あの人演劇やってたんだ、エキストラで出てたならテレビで見てたかも・・・)、誌面で名前しか知らなかった人を初めて認識したり(女性だったのか・・・)、なんだかんだと楽しいひとときだった。
遠方から、大人数が、仕事の合間にも集まれる。ネットツールのありがたさはこの一年でよくわかった。
そのうえで、当初から感じていた人恋しさはぬぐえない。
一人一人の話を聞くにはいいが、隣でこそここそと交わす雑談がない。相づちも、応答も、どこか遠い。やはり、人と顔を合わせ、言葉を交わすことは、人間にとって原初的な娯楽らしい。
俳句は座の文芸といわれる。俳句だけでなく歌人や俳人たちは一座を共にして詩歌を詠み、交流してきた。交流の形は時代によって変わるだろうが、果たしてこれから、どんな形になっていくだろうか。

2021年8月3日火曜日

【転載】京都新聞2021年5月24日 季節のエッセー(22)

「電車時間」

大学のはじめの二年間は、京都の南端にあるキャンパスに通っていた。

神戸の実家から大学の最寄り駅まで、電車に乗って二時間、さらにキャンパスまでは坂道を十数分かけて登っていた。

この電車時間、慣れてくると時間配分を考えるようになった。

まず神戸から大阪までは人が多くて座れないので本を読む時間。一度路線を乗り換え、大阪からだんだん人が少なくなってくると着席のチャンスだ。サラリーマン風の男性は北新地周辺で降りることが多いので狙い目。
それからはリラックスして、本を読んだり、目を閉じて居眠りをしたり。語学の授業前には必死で予習をしていた。準備が悪いのは今も変わらない。

京橋を越え、東大阪のあたりを走るころには読んでいた本も片づけて、たいてい眠りに落ちている。
当時は大学最寄り駅のひとつ手前で車両の切り離しがあり、乗客が入れ替わる気配とガタン、という衝撃でやっと目を覚ます。
前の車両に乗っていれば乗り換えの必要はないが、後列から乗ってきた客をふくめ、車両のほとんどが学生で埋まっていく。
次の駅で一斉に下車して、改札口へ向かう学生の群からいったん外れ、目を上げると駅の周りには田畑が広がっている。小鳥の囀りを模した駅のチャイムを聞きながら、混雑が落ち着くまで少し息を整えた。

投句の締切が近くなると、登下校の時間は句作りに充てられる。
キャンパス内の緑。
蛙の合唱。
旋回する子燕。
夏鶯の、春とは違う朗々とした鳴き声も意識するようになった。
歳時記に「老鶯」という季語があるが、実際ののびやかな鳴き声とのギャップに違和感があってうまく使えなかった。

朝は眠たくて景色を見る余裕はなかったが、帰路、乗客もまばらな時間帯に、広い車窓から沈む西日を眺めるのが好きだった。
夕日、夕焼けを季語と認めるかどうかは賛否あるようだが、日の入りが一番見事なのは、やはり夏だろう。「夏は夜、秋は夕暮れ」という清少納言には、反論しておきたい。

多くの人は、俳人は自然の風景に感動して季節の詩を詠むと思っているだろうが、実は少し違う。
少なくとも私は、季語の知識から自然を見るようになった。はじめに言葉ありき。
そして季語をふくめた言葉を更新するため、俳句を詠んでいるのだ。