2021年8月3日火曜日

【転載】京都新聞2021年5月24日 季節のエッセー(22)

「電車時間」

大学のはじめの二年間は、京都の南端にあるキャンパスに通っていた。

神戸の実家から大学の最寄り駅まで、電車に乗って二時間、さらにキャンパスまでは坂道を十数分かけて登っていた。

この電車時間、慣れてくると時間配分を考えるようになった。

まず神戸から大阪までは人が多くて座れないので本を読む時間。一度路線を乗り換え、大阪からだんだん人が少なくなってくると着席のチャンスだ。サラリーマン風の男性は北新地周辺で降りることが多いので狙い目。
それからはリラックスして、本を読んだり、目を閉じて居眠りをしたり。語学の授業前には必死で予習をしていた。準備が悪いのは今も変わらない。

京橋を越え、東大阪のあたりを走るころには読んでいた本も片づけて、たいてい眠りに落ちている。
当時は大学最寄り駅のひとつ手前で車両の切り離しがあり、乗客が入れ替わる気配とガタン、という衝撃でやっと目を覚ます。
前の車両に乗っていれば乗り換えの必要はないが、後列から乗ってきた客をふくめ、車両のほとんどが学生で埋まっていく。
次の駅で一斉に下車して、改札口へ向かう学生の群からいったん外れ、目を上げると駅の周りには田畑が広がっている。小鳥の囀りを模した駅のチャイムを聞きながら、混雑が落ち着くまで少し息を整えた。

投句の締切が近くなると、登下校の時間は句作りに充てられる。
キャンパス内の緑。
蛙の合唱。
旋回する子燕。
夏鶯の、春とは違う朗々とした鳴き声も意識するようになった。
歳時記に「老鶯」という季語があるが、実際ののびやかな鳴き声とのギャップに違和感があってうまく使えなかった。

朝は眠たくて景色を見る余裕はなかったが、帰路、乗客もまばらな時間帯に、広い車窓から沈む西日を眺めるのが好きだった。
夕日、夕焼けを季語と認めるかどうかは賛否あるようだが、日の入りが一番見事なのは、やはり夏だろう。「夏は夜、秋は夕暮れ」という清少納言には、反論しておきたい。

多くの人は、俳人は自然の風景に感動して季節の詩を詠むと思っているだろうが、実は少し違う。
少なくとも私は、季語の知識から自然を見るようになった。はじめに言葉ありき。
そして季語をふくめた言葉を更新するため、俳句を詠んでいるのだ。

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