先日(2014年3月23日)、京都グランディアホテルで「ネンテンさんと30・70・100の会」が開催された。
これは、坪内稔典氏が70才になる年に、「船団の会」創設30年、雑誌『船団』100号、という節目が重なることを祝うものだった。
そして、当日の参加者も、船団会員が約100名、外部招待客が約100名の200名。なんともきりのいい、華やかな会となったのだった。
この会は、「船団の会」の岡さんと、塩見先生とが企画・立案して、開催にこぎつけたもの。お二人との関係からしてお前も関わったのかと思われそうだが、私は何も聞かずに当日行って、会場では受付の手伝いをしたり、クラッカーを鳴らしたりしただけで、あとは食って飲んでしていたので、ほぼ無役であった。
塩見先生曰く「結婚式の披露宴イメージ」というパーティは、大広間の立食パーティに人が入り乱れるなか、金屏風を前にした坪内先生夫妻がデンと構え、吉藤美也子氏(FM宝塚アナウンサー)による、さすがの司会捌きで粛然と進行されていった。
そして、当日の見所は、やはり塩見先生の偏執、いな、編集のビデオ。
パワーポイントを駆使し、過去から現在へ至る写真や、ネンテン先生の原点を探る故郷、母校をめぐったり、弟さんからのメッセージを撮影したりしたビデオレター、船団の各地区句会からのメッセージなど、盛り沢山の内容。
ほんと、あの先生学校の仕事大丈夫なんだろうか。。。と、いささか恩師の職場事情を心配してしまったほど、気合いの入ったビデオではあった。
(ネンテン先生の故郷めぐりについては、こちらをどうぞ)
興味深かったのは、主催側の「船団」会員を除けば、あまり俳句実作者が招待されていなかったことである。特に関係の深い、宇多喜代子氏、茨木和生氏を除くと、豊田都峰氏、小池康生氏、杉田菜穂氏といったあたりか。
そのかわりというか、坪内先生と仕事をしている、出版社・新聞社の担当さんたちが多く参加されていた。
俳句作家としての上下関係(=「俳壇」)よりも、句会を実際ともにする仲間(結社)と、俳句をとりまく社会(裏方)が優先、というのが「坪内稔典の現在」ということになるのだろうか。
かつて、「三月の甘納豆のうふふふ」発表をうけて林桂氏は「坪内稔典の現在から遠望する」という文章を発表した(『未定』14、1982年4月、のち『船長の行方』書肆麒麟、1988年。所収)
そこでは坪内氏の「現在」が一見「今まで」に過ぎるとしか見えない、と評されたことに関する危機意識が述べられつつ、当時の坪内氏が山本健吉や吉本隆明に引きずられる形で言語空間における主体の確立を欠落させてしまったのではないか、と批判する。
そこから遠く30年が過ぎた。
坪内氏にとっての「現在」は、いったいどんな地平が見えているのだろうか。
それは、おそらく1980年代前後、高柳重信の死後から、あまり変わらず、「俳句の過渡性」の、むしろ非言語的な部分への着目が増していっているのではないだろうか。
ちなみに、『Ku+』「いい俳句とは何か」アンケートにおける坪内稔典氏の回答を引く。
「俳句とはどんな詩か」を問い続けるとき、「いい俳句」が生まれる可能性がある、と考えています。この場合の「いい俳句」とは今までになかった俳句です。きわめて独断的に生まれますが、それが波紋のように広がって独断を超えます。・・・・・・「いい句」は何年もかけて育つのです。もちろん、作者も問い続けていなくてはなりません。日本語の表現史の先端に露の玉のように生じる俳句、それは何か、を。この問いを手放したとき、「いい俳句」から見放されます。
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今日、「笑っていいとも!」が32年の幕を閉じた。
そこで、爆笑問題の田中裕二が、「タモリさんの照れ笑い」が好きだ、と言っていた。「32年間やってるのに、なんで慣れないんだろう。なんでまだ照れるんだろう。そんな人だから32年間続けられたのだろう」と。
本人を知っている人なら分かると思うが、坪内先生もまた、おそろしくシャイである。
シャイで、照れ笑いしながら、しかしぽろっと鋭いこと、聞き逃せないような評語を言いこぼす。
思うに、「表現の先端に立」っている、その自負は、あの「照れ笑い」に潜んでいるのではないだろうか。