「BLOG俳句空間―戦後俳句を読む―」で、西村麒麟句集『鶉』を読む企画が進行中である。
私も「へうたんの国は、ありません」という一文を寄せさせてもらった。
せいぜい一ヶ月程度、麒麟さんと親しい数名が執筆するのだろうと思って気軽に引き受けたのだが、2月7日の56号から開始された同企画は、3月末の現在をもっていまだ終わる様子がなく、二人ずつ毎週『鶉』を絶賛する、という、なんとも贅沢な状況が続いている。
とはいえ、何を書いてもすべて筑紫磐井氏のツンデレに回収されてしまいそうな思いで苦笑していたところ、先ごろ行われた芝不器男新人賞選考会において、西村麒麟氏が大石悦子奨励賞を受賞した、という報が飛び込んできた。
まったく、2014年は西村麒麟の年、ということになりそうである。
まったく、2014年は西村麒麟の年、ということになりそうである。
ここ数年、東京へ行くときには麒麟さんに連絡をとり、ともに酒杯を傾けながら愚痴を託つのを習いとしていたのだが、今度は祝杯を挙げに行かねばならぬ。
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さて、拙文では西村麒麟を次のように評した。
ともかく麒麟氏の作品は、あくまで作者によって仮構された桃源郷であるところに眼目がある。野暮を承知で私見を申しあげれば、俳句という小さな詩型によって擬制される世界の虚構性に自覚的であるという点で、麒麟氏は当代屈指の存在です。
あえて言うまでもなく、麒麟俳句における「へうたんの国」は、徹頭徹尾、仮構された世界である。
へうたんの中に見事な山河あり 西村麒麟
飛び跳ねて鹿の国へと帰りけり
ところで、知っているひとはよく知っているが、西村麒麟と同年生まれの作家に、外山一機がいる。
平成四年歌会始御製歌
白樺の堅きつぼみのそよ風に揺るるを見つつ新年思ふ
白(しら)河(かは)の方(た)
狐(きつ)の身(み)の
一(ひと)稼(かせ)ぎ 外山一機
すっぽんぽんでかわいそうなもの、3号機とあたし。 巻民代
巻民代は外山一機の「別称」で、句集『御遊戯』(電子書籍、2013)の「作者」。
作風において両者は一見、著しい違いを感じさせる。
また、おそらく西村麒麟は共通点を強く否定するであろうが、私見では「俳句という小さな詩型によって擬製される世界の虚構性に自覚的」な作家として、両者は双璧といっていい。
その俳句形式のもつ「擬製」する力への自覚の通底をもって、私は彼らの「同世代評」を書きたい、と思っている。
それは、前後の作家に顕著に見られる「パフォーマンス性」と、無縁ではないからだ。
ただ、西村麒麟があくまで肯定的に俳句型式に身を委ねているのに対し、外山は手を変え品を変え、時に偽悪的に、時に自らチキンレースに挑むような切迫感とともに、形式の意味を問い続けている。
外山一機が、俳句形式への鋭い洞察を加えながら、俳句形式が必然のようにもたらす「月並」とも「菊弄り」ともつかぬ「平野のアポリア」に対し並々ならぬ関心を払っていることは周知のとおり。
外山は、俳句形式によってほとんど自動書記的に作られる「俳句」なるものの自立について、考証と実践を通し追究している。彼がしばしば厳しい口調になるのは、形式の力に拠りながら、形式の力に無自覚であるかのような「俳人」の在り方である。
そのような眼にあって、たとえば「俳句の国」の住人であるかのごとき西村麒麟は、どのように映るのか。
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『Ku+』1号(2014.03)、第1特集「いい俳句」アンケート回答より。
外山一機「意識的であれ無意識的であれ、俳句形式の居心地の良さを自覚しながら、そして以後ことがよいということがいかなる事態であるのかを自覚しながら、それでも自分の作品を「俳句」と呼ぶことを是とする自分の精神に準じようとして書かれたような俳句。また、その句を前にしたときに、自分があるいは俳句形式によって書かされてしまった(読まされてしまった)のではないかという周知と喜びを感じるような俳句。」
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