先日の「俳句ラボ」に参加していただいた皆さん、お疲れ様でした。
主催側も、「声を掛けた知り合いしか来ないのではないか」とおそるおそるで始めた企画でしたが、予想外の人数が集まり、第一回は盛会のうちに終えることが出来ました。
チラシを見て来て下さった方のなかには、句会初参加、という方もおり、なんというか、大げさですけれども「俳句」の可能性みたいなものを感じてしまいました。
第二回以降もこの調子で続けられればと思います。よろしくお願いいたします。
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「九月尽」は俳句でよく見かけますが、そのほかの月ってあまり見ない気がします。
ろくがつじん、は6文字だから笑われるのでしょうが、四月尽、五月尽なんかはどうなんでしょうか。
気になったのでぐぐってみました。
google検索 四月尽
google検索 五月尽
単に認識不足だっただけで、例句もあるようです。
四月尽には「夢に浮く身風呂にしずむ身四月尽」という、たいへんロマンチックな例句を見つけました。作者は江里昭彦氏。
では六月尽は?
検索してみると、『増殖する俳句歳時記』記事が見つかりました。
つまり完全に私の認識不足。数は少ないかも知れないけれど、決して「用例がない」わけではないということがよくわかります。
June 27 2000
夢に見し人遂に来ず六月尽く
阿部みどり女
遺句集に収められているから、晩年の病床での句だろうか。夢にまで見た人が、遂に現れないまま、六月が尽(つ)きてしまった。季語「六月尽(ろくがつじん)」の必然性は、六月に詠まれたというばかりではなく、会えないままに一年の半分が過ぎてしまったという感慨にある。作者はこのときに九十代だから、夢に現われたこの人は現実に生きてある人ではないように思える。少なくとも、長年音信不通になったままの人、連絡のとりようもない人だ。もとより作者は会えるはずもないことを知っているわけで、そのあたりに老いの悲しみが痛切に感じられる。将来の私にも、こういうことが起きるのだろうか。読者は、句の前でしばし沈思するだろう。同じ句集に「訪づれに心はずみぬ三味線草」があり、読みあわせるとなおさらに哀切感に誘われる。「三味線草」は「薺(なずな)」、俗に「ぺんぺん草」と言う。そして掲句は、こうした作者についての情報を何も知らなくとも、十分に読むに耐える句だと思う。「夢に見し人」への思いは、私たちに共通するものだからである。虚子門。『石蕗』(1982)所収。(清水哲男)
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「表現の新しさ」を証明するためにも、google検索を使うことが出来る。
類句、類想句、ということは、短詩型のなかではとかく問題になるが、「類想」があるような気がしたら、ためしにgoogleで検索してみるのは基本だろう。
「ありそう」だが「新しい」のか、発想は「ありそう」だが表現としては「新しい」のか、表現レベルをふくめて「よくある」のか。
ちなみに。google検索 想定外 すまされぬ
これはよく、大学の先生などが学生のレポートの「ネットコピー」を見破るために行っていることなのだが、レポートの一部を検索にかけるのである。すると、よく似たサイトがひっかかる。時には、まったく同じ文言が見つかることがある。ざっと見て、「参照した」程度ならよいが、明らかな表現・文章構成の一致が見つかれば、アウトである。
最近では自動で文章の一部を検索にかけて「盗作」を見破るというソフトもあるのだそうだ。
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以前「船団」の句会に、あるJ-POPの歌詞によく似た句が句会に出て、話題になったことがある。
たしかその頃『超新撰21』でも同じような騒ぎがあったところで、私はその事件を踏まえた問題提起かとも思ったのだが、実際には作者は六十代の男性で、その事件も歌詞についても知らず、偶然出したものだったそうだ。
そのとき、中原幸子さんが、坪内氏の発言として語っていた内容が印象的だった。
曰く、俳句のように短い文芸においては特に、1字でも変えれば創作である。16字が一緒であったとしても1字が違っておれば別の作品であり、作品の優劣によってどちらがよいかを決めればよい、と。
中原さんはさらに、おそらく表現者としては1字でも変えるべき文字はない、ベストの17字だ、覚えられなかったり変えたりできるようならその作品はダメ、という矜恃を持つべきだということだろう、、、という解釈も語っていて、記憶によるので正確な表現ではないけれども、なるほど見識である、と感心した覚えがある。
「本歌取り」などと言って安易な「類想」を認めるくらいなら、これくらいは徹底しておかないとダメだな、と、思った次第である。
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そういう坪内先生に、引用ミスがかなり多いっていうのは、、、納得できるような、できないような。