先日、『俳句研究』バックナンバーを見ていたら面白い連載を見つけた。
「共同研究・現代俳句50年」というもので、1995年1月に始まり、1996年10月まで、一年以上にわたって執筆が続けられている。
Cinii検索「共同研究・現代俳句50年」
「共同研究」ということで、坪内稔典、大串章、川名大、仁平勝、本井英、の五人が順番にテーマを設けながら「戦後俳句50年史」を執筆し、折々に座談会をはさんで記事を振り返って討議したり訂正を加えたりする、というもの。
座談会には「歴史の当事者」ということで、五人より年長の上田五千石、金子兜太などがゲストとして加わっている。
とても長い連載なので一回では読み切れず、今度図書館でじっくり読み直そうと思っているが、それにしもメンバーといい、連載の期間といい、大変、周到な企画である。
たしか角川『短歌』では昨年、「前衛短歌とは何だったのか」という長期連載があって、短歌には関心が深くないので読んでいなかったが、最近の俳句総合誌ではここまで骨太の企画は通らないだろうな、と思った次第である。
いま、「世代論」ということを考えている。
「世代論」を語ることはとりもなおさず自らを俳句史にどう位置づけるか、ということなので、自然と「俳句史」的意識を持つ必要がある。
当然、先行する世代が自らをどう規定してきたか、ということは大変気になるわけで、「世代論」の続きは、上の連載をある程度読んでからにしたいと思う。
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「世代論」の続きを書く前に、いくつか明記しておきたいことがある。
「世代論」を含めて、私のなかの関心事は「俳句批評」の在り方である。
実際、私自身は決してすぐれた批評家ではなく、俳句批評に一生を捧げるという覚悟で臨んでいるまでとは言えないけれども、しかし「俳句批評」の交通整理というか、「この人は信頼できる」「この人の評論は読んで欲しい」という私なりの評価を、できれば多くの人に伝えたいと思っていて、それが最近のメインになっている。
俳句に限らず、文芸作品において批評の在り方というのはやっかいで、単なる感想文に終わらせないためにどうすればよいか、ということは重要な課題だと思う。
先日の記事では、
といっても、先ほど述べたとおり「批評」がいくら自由に作品に迫っていこうとしても歴史的背景や文法を無視して論評されてしまうと、それは一個人の「読み」にしか過ぎなくなってしまう。その批評が当を得ているかどうか、は、その批評がどこまで客観的な素材にもとづいて議論しているか、にかかっており、その点、「研究」とは目指すところは違っても手続きは似ている。と述べて、要するに個人の読書感想文に終わらないために、客観的素材に基づいて議論を組みたてること、を重視したのだが、もちろん客観的素材を並べただけでは、読んでいて面白くもなんともない。
(読者がまったく知らない資料紹介は、それなりに面白い。知られていない資料を的確に評価し公開することは「研究」の基礎であり、重要な部分である)
では、「感想文」とも違う「事実報告」とも違う、「批評」とは、何だろうか。
私の思う一つの答えとして、「新しい視点を提起する」ことがある。
「感想」「鑑賞」が、あくまで作品本位で、作品読解のひとつであるのに対して、「批評」は、ひとつの作品をよりよく読むだけでなく、ほかの作品や作家の理解にも波及し応用できるような視点を、読者に提起できることが望ましい。(ここで「世代論」で言及した「戦略性」が関わってくる)
つまり、「批評」は、作品主体に即した「鑑賞」より、もう少し踏み込んだ、批評家オリジナルの創作的行為である(ことを目指す)ことが重要ではなかろうか。
ただし行き過ぎると、深読み、というよりまったくの誤読というか創作になってしまう。
古典批評で話題になることが多いのは、仏教哲学者・梅原猛氏である。
梅原氏の『水底の歌―柿本人麿論―』は大仏次郎賞も受賞した著名な評論であるが、益田勝実氏の批判(『文学』岩波書店、1975年4月)でも明らかなとおり自己矛盾をはらんで小説家的空想をはばたかせた本である。
(実は私は益田氏の文章だけしか読んでいない。梅沢氏の本は手に取ったものの最後まで読めず投げ出してしまった。だからこの批判はあまり妥当性がないが、話題の余波でご容赦願いたい)ちなみに梅原氏は能楽に関する著作も多いが、能楽研究の大家、表章氏の遺作となった『昭和の創作「伊賀観世系譜」―梅原猛の挑発に応えて―』(ぺりかん社)は副題のとおり梅原氏への批判を一書としたものである。
資料自体は客観的なものであっても(後者の観世系図は偽書だったのだが)、論理が客観的でない、ということはもちろんある。
梅原氏の「評論」は、「研究」的視座から見るととても危なっかしく利用できないのだが、話題性に富んでいるし、読み物としては成功したといえるのだろう。しかしやはり「的を射た」批評である、というわけにはいかない。
そのあたり、客観性とオリジナリティとの間でバランスをとりながら「読む」のが、「批評」行為の難しさ、ということになるのだろう。
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