先日書きかけた「世代論について」をあげておく。
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加藤郁乎氏は享年83歳。昭和4年生まれ。
いくつか手許のアンソロジーなどを概観すると、この前後生まれの作家としては
昭和2年 川崎展宏、津沢マサ子、福田甲子雄などがおり、上田五千石(S8)、折笠美秋(S9)、宇多喜代子(S9)、寺山修司(S10)、安井浩司(S11)、黒田杏子(S13)と続く。
昭和3年 岡本眸、阿部完市、柿本多映
昭和4年 加藤郁乎、宮津昭彦、廣瀬直人、青柳志解樹
昭和5年 有馬朗人、鷹羽狩行、河原枇杷男、原裕、宗田安正
昭和6年 稲畑汀子、平井照敏
大正8~9年が作家豊作の年であったことはよく知られているが、この時期もなかなか壮観である。しかし、個性の強い前後に挟まれた昭和一桁世代は、実力やネームバリューのわりに影が薄いように感じられる。
筑紫磐井氏の分類によればこの世代は「ポスト戦後派」の第一陣と位置づけられるはずだが、それでは範囲が広い。
この世代に特化した選集としては、島田牙城、櫂未知子両氏のインタビュー集である『第一句集を語る』(角川書店)があり、ここにおさめられた作家は、
鷹羽狩行、稲畑汀子、岡本眸、廣瀬直人、有馬朗人、黒田杏子、鍵和田秞子、川崎展宏、阿部完市、宇多喜代子の10人である。帯に、「処女作には、その作家のすべてがある。 昭和一桁世代を中心とした、現代俳句を牽引する10人が「自ら語る我が俳句の原点」」とある。
ここで若干年少の黒田杏子氏が加入し、加藤郁乎がいないことは注目してよい。
もともとこの企画は『俳句』誌上で行われたもので、先行企画として黒田氏の『証言・昭和の俳句』があり、その後続世代を、という意図があったようだ。メンバー選定にはそれなりの事情があるのだろうが、加藤郁乎がいるかいないか、は「昭和一桁世代」のカラーを決定する上では重要だったはずだ。
残念ながら、インタビュー集という性格上、10人のカラーを俯瞰するような「世代論」的な趣は弱いが、「戦後の焦土と混乱の中で俳句を自らの表現手段として選んだ」(櫂未知子氏のまえがき)世代として、まとめられている。
なお、島田氏のあとがきには、企画段階で名前のあがった福田甲子雄氏が本の出版された年の四月に他界したことが触れられている。
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昭和一桁世代のなかで阿部完市、加藤郁乎は「言葉派」とされることもあるが、寺山、安井らのほうが本格的な「言葉派」にふさわしく、さらにそのあとの角川春樹(S17)、坪内稔典(S19)、西川徹郎(S22)、摂津幸彦(S22)に至って「言葉派」は全盛を迎えた、というべきである。
あえて言うならプレ「ことば派」、あるいは第一次「ことば派」とでもすべきか。
(ちなみに阿部、加藤はおなじ早稲田小学校の出身で、前掲『第一句集を語る』でも阿部が加藤の句集に衝撃を受けたと語っている。)
(ちなみに阿部、加藤はおなじ早稲田小学校の出身で、前掲『第一句集を語る』でも阿部が加藤の句集に衝撃を受けたと語っている。)
『現代の俳句』(講談社学術文庫)後書によれば、坪内稔典は昭和一桁世代を「小さな俳句」と呼び、「大正世代が時代や社会に向き合い大きな俳句をめざしたのにたいし、昭和一けた世代が俳句形式に則した小さな俳句を志向している」と分析している。
孫引きで恐縮だが、加藤、阿部、河原を除けば)おおまかには納得できるのではないか。
ただ、そのなかでも加藤郁乎という存在は、ちょっと微妙である。
初期句集『球体感覚』『えくすとぷらずむ』などは「言葉派」だが、中期以降の江戸俳諧への傾斜は、「言葉」や、「俳句形式」の面からだけ見てよいのか(あるいは言葉や形式への関心はそれとして、同じ語で括っていいか)という疑問が残る。
古俳諧に親しんだとされる作家は少なくないが、作品として反映させたのは、橋カン石と加藤郁乎が両雄であり、現代俳句の方向に投げかけた一石として、二人の句業は、小さなものではない。
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当blogを開設したばかりのころ、しきりと「世代論」を話題にあげていた。
直接的には小川軽舟氏の「昭和三十年世代俳人」という括りに反応した、高山れおな氏や神野紗希氏の発言に触発されたものであったが、もともと「俳句甲子園」組の活躍など、私個人の関心に近かったので連鎖したのだった。
(これは単純に同世代の友人が活躍しているのが嬉しい、というだけの心情だった。)
その後、『新撰21』が刊行されて「ゼロ年代俳人」という枠組みが知られるようになり、
『新撰21』評としてスタートした山口優夢の文が書籍化されたり、
「スピカ」で神野紗希さんや、福田若之くんらが同世代の俳句を中心に論じていたり、
今やゼロ年代作家たちの後見人的存在感を発揮する筑紫磐井氏が複数の媒体で「超戦後俳句史」と称する現在史を記述したり、
断続的に「世代論」めいた議論はネット上で繰り返されてきたようだ。
いつしか私自身は、同世代への関心はそのままに、「世代論」として議論することは控えるようになっていた。結局、「世代論」をどのように「結論」づければいいのか、という疑問を、ようやく考えるようになったいたのである。
同時期に生まれた人たちであれば、同じような時代感覚で成長し、俳句に関わっているはず、というのが「世代論」の前提になるのだが、そもそも時代感覚だけで理解できるような作家ばかりであれば、個々の作家としては特筆するに値しないのである。
育った地域が違えば環境も違うし、早熟の人も晩成の人もいて、作句を始めた時期や句集をまとめた時期だって、おおきく影響するはずだ。
そうである以上「世代論」は、ほかの批評のような客観的妥当性などは重要ではない。
同世代の作家からどの作家のどのような面を論ずるか、あるいはどの作家が時代を代表していると見なしプロデュースするのか、という、戦略性、恣意性をこそ、「世代論」はもつべきだったのである。
(たとえば池田澄子氏は昭和11年生まれで安井浩司氏と同年であるが、彼女を安井と直接比較するのはかなり難しく、むしろ、同時期に活躍した作家、というほうが「世代論」として論じやすい可能性もある)
小川軽舟氏は「昭和三十年世代」を、高山氏の指摘する「夏石番矢はずし」によって編集した。そして、「伝統」の「型」を継承し守っていく世代、という括りで、自分たちをプロデュースしてみせたのである。
小川氏自身が認めているとおり、最初に「昭和三十年世代」をプロデュースしたのは小林恭二氏である。
この新しい世代の演出において、小林恭二の役割は決定的に大きかった。
小川氏は「演出」という語を用い、小林氏が同世代の作家を「売り出し」、世代交代に貢献したと評価している。そして、今は(演出に入っていなかった自分を含めて)三十年世代が「俳壇の中核」を担っている、と自負しているのである。『現代俳句の海図』角川学芸出版
翻って考えたとき、ここ数年、おもに当事者たちから発信された「世代論」には、小川氏や小林氏のような戦略性、あるいは「世代交代」を強いるような攻撃性に乏しかったといえるのではないか。
ほとんどが、同世代が俳句とどう関わっているのか、現在どのように関わっていけばよいか、という、「同世代への関心」が優先され、先行世代に対する戦略性や攻撃性には乏しかったのでは、ないだろうか。
ほぼ唯一の例外は外山一機氏であり、彼は『新撰21』ですでに、
だが、僕はあえて言おう、「かつての天才」もやはり存在していたのだと。そして僕はまた言おう、その「天才」を僕らが批評と実作徒によって弔う季節が来ているのだと。僕らこそ新たな「天才」なのだと高らかに偽称する季節が来ているのだと。と、きわめて戦略的な発言をしている。(「偽称」という語がいかにも意識的である)
「世代論」は、恣意性を認めた上で、なんらかの戦略性をもって「演出」することを目的になされるべきだった。
「僕ら」は、まだ始まってもいない。だからこそ、「僕ら」は、自ら「偽称」する、そこから始めるべきであった。
しかし、である。
外山氏の問題意識に対して、多大なる共感と関心を抱きつつ、一抹の違和感が残るのだ。果たして、これまで何度となく繰り返されてきた「世代交代」なるものに、「僕ら」は、本当に期待できるだろうか。
別の言い方をしよう。
今、我々は、先行世代が期待する「世代交代を強いる若者」を、演じるべきなのだろうか? と。
「世代交代」というのは、原則的に時が移れば必ず起こるはずだが、文芸の世界では残酷なことに、死んでなお旧世代の存在感のほうが大きければ、新世代の作品は読まれないのである。だから、旧世代が絶滅すれば、それでジャンル自体が存在感を失うということがありうるのである。
だから、単純に「旧世代」が時代に合わないからと引退を勧告すればすむような「世代交代」では、文芸史上的には、まったく意味をなさないのである。
(この稿、続く)
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