俳句的発想、三題。
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日本経済新聞に連載されていた、坪内稔典氏の「俳句的発想」が第四回で最終回を迎えた。この最終回がかなりおもしろい。
いままで書いてきたことの総まとめという感じで、かなりストレートな形で意見が表明されている。
冒頭と、末尾の文章を引く。
*自分の感動を表現しないのが俳句だ。
と言うと、えっ、表現とは自分の感動や暮らしの記録ではないか、と思う人がいるだろう。……だが、俳句では五七五の言葉に表現させる。五七五の言葉の表現を通して、作者は感動を発見する。つまり、感動の表現でなく、感動の発見が俳句の基本なのである。
作者の感動などを表現するという近代の文学観から見ると、以上のような俳句は前近代的かもしれない。明治時代、坪内逍遙は批判した。
……実は私も逍遙や武夫の意見に賛成である。だが、賛成しながらも、野蛮や第二芸術であることも大事だ、と思っている。つまり、句会を通して自分の感動に気づき、自分をほんの少し広げる、そういう五七五の表現に魅かれている。「俳句的発想」日本経済新聞2011年2月24日夕刊
申し遅れましたが、今週末はこちらのイベントを見学に行く予定。
子規記念博物館 冬季子規塾
こちらの告知では、なぜか青木さんや関さん、越智に混じって私の名も。
週刊俳句 Haiku Weekly: 子規記念博物館 冬季子規塾 国語で俳句を教えるの―正岡子規から池田澄子へ―
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前回ぼそっと書いた、自分たちのプロデュース、ということですが、このあたり、ほったらかしにしている女流俳句ということへの続きへもつながってくる話だと思っています。
要するに、自分のなかでの、どこにこだわって、どこを表現していくか、というところ。
「しょうがない」ってのは、なんなのだろう。女性ならぬ私には想像もできないが、表現において「女性」であることはそれほど決定的なことなのか。女性は消費される。これは、もう、しょうがない。しょうがないと言ってしまうと身も蓋もないが、女性という性別と肉体を与えられた以上、私たちの眼の前には、それを利用するかしないか、という選択肢しかない。
神野紗希「木曜日と冷蔵庫」『週刊俳句』195号
作者にとって女性であることは、あるいは重要かも知れないが、全部ではないはずだ。まして読者にとって作者が女性であるかどうかは、数ある情報の一部にしか過ぎない。何を見るか、は読者側の問題だ。
高校生が作る句に必ずしも「高校生らしさ」が表れる必要がないように、女性の句に「女性性」が表れる必然性はなく、また読者がそれを看取せねばならぬいわれもない。
そのうえではっきり言うと、文芸表現において「女性性」を表明するのは、すでにかなり過激なかたちで先人が実行しているのであって、いまさら誰がどんな表現をとったとしても、ほとんどは既視感にまみれてしまうのではないか。
端的に言って、現代において女性が「女性性」にこだわること自体、現代の表現として新しくない、と思う。である以上、評論がその地点に止まっていなくてはならぬわけはない。
俳句表現では「女性性」に限らず、ときどき現れる「私性」の過激表現に対して過剰なほど賛否両論がまきおこるように見えるが、評論の怠慢だと思う。評論家の仕事は、きちんと評論史を参照し、既視感のある表現にはそれと指摘してご退場願わなくてはならない。
というか、同じ人間がつくりだす表現が、自然のままでそれほど「個性的」であるわけもない。たいていは先行して同じような作風があり、そのバリエーションで理解できるものなのである。
ところが同時に、まったく同じ表現、というのも、作るのが難しい。
やはり語彙やニュアンスに時代差、世代差、地域差、そして性差があらわれる。
作品の「個性」など、多くは、その程度である。だが、その「程度」が重要であり、それを意識してプロデュースできるかどうか、だけが「新しい表現」への途だと思う。
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と、どうひねっても当たり前のことしか言えていないように思うが、ひとまず、極小詩型のなかからの発想、三題。