2022年3月27日日曜日

【転載】京都新聞2022年3月15日 季節のエッセー(30) 

 「豆腐が飛んだ」

三年前の春は何をやっていたかと思い、アルバムのデータを見ていたら、MIHOミュージアムの桜の写真があった。たしか、国宝、曜変天目の展示を見たときだ。
結婚を機に滋賀県に住むようになって一年余り、ついでに桜も見られるし、と言って出かけたのである。
滋賀在住ならこれからもたびたび来られるだろうと思っていた美術館も、県内のほかの花見スポットも、それ以来行けていない。

私のエッセー担当は今回が最終回。
まさか三年のうち二年間がパンデミックにおおわれるとは思いもよらなかった。おかげさまでエッセーも、季節感のうすいオンラインの話題が多くなった。

実はほかの文章はともかく、本欄のように人目にふれるものは読みやすさが一番と思って、毎回妻に下読みをお願いしていた。
はじめはなかなか書き慣れず、季語の由来や俳句について書き込んだ文は「読みにくい」と言われ、日常の話題を書いた文は「まとまりながない」と言われ、何度も書き直した。

本欄の難しさは、季節にあわせた話題を選ばなくてはいけないことと、案外字数が多いこと。
もちろん書き手の腕次第なのだろうが、日常の小ネタだけではうまく話がまとまらないということはわかってきた。

たとえば、通っている床屋さんが西宮神社の福男選びに参加しているという話。
早朝のスタートに好位置を確保するため夜中に並んで抽選し、仮眠をとってのぞむらしい。興味深いが、聞いた話だけでは話に重みがないし、ほかの話題に展開しづらい。

最近でいえば、妻に豆腐をぶつけてしまった話。
もちろん意図したわけではない。以前視聴した情報番組で、プリンなどをお皿に盛るときはカップを裏返して皿に密着させ、皿を持った腕を延ばしたまま一回転すると遠心力で簡単にはずれる、という裏技を紹介していたので、豆腐で試そうとしたのだ。
ところが皿との間にすきまがあったらしく、カップから出た豆腐がつるりと飛び出し、こたつでくつろぐ妻の背中を滑降、カーペットに落ちて無惨に崩れてしまった。悲しかった。

こんな話題も、豆腐は季語にならないし、普段はボツである。

最後だから思い切って書いてみたが、やはり落ちがつかない。修行をやり直して、またいつか、どこかでお目に掛かりたい。


※3年間お世話になった京都新聞「季節のエッセー」はこれで最終回。
はじめはここで書いたとおり書き慣れず、なかなか難しいと思ったけれども、なんとかネタをつないできました。「言葉」について、更新されていくもの、つながっていくもの、みたいなことは漠然とテーマに考えていたけれど、途中でリアルに仲間と会うこと、季語に触れること、を考え直さざるをえなかった三年間でした。思いがけずもと船団の方から感想をいただいたり、よい経験でしたが、パンデミックが収束しないなかで戦争と天災のある世の中になっているとは、まさか思いませんでした。暗い気持ちになるので、思い切ってお気楽な方向に振り切って最終回をまとめましたが、これでよかったのかどうかわかりません。
国が戦争をするということ、個人が、表現や学問にたずさわる人間がそれに直面するということ、を考えさせられます。つら。俺だって気楽に酒呑んで俳句の話してーわ

2022年3月21日月曜日

【転載】京都新聞2022年2月7日 季節のエッセー(29)

 「春を待つ」

春を待つ、という季語がある。
漢語でいえば待春。万葉集にさかのぼるようだから日本でも相当昔から愛されてきた言葉で、春待顔などという言葉も平安時代に用例がみえる。
もう少し春の気配を感じられると、春近し、となる。

春隣という言葉もあって、やわらかな、よい言葉だと思う。
春の訪れは春信、春告鳥といえばウグイスのこと。実家のある神戸の山裾でもウグイスの声は聞こえるのだが、それと意識したのは俳句を始めてからだった気がする。
ある友人は、季語を知ると目の前の景色の解像度が上がると表現していた。まさにそう、知っていたはずの景色をより明晰に認識することができる。

あるいは春に入ってからも余寒、冴え返る、など早春の寒さをあらわす季語がある。

 鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子

行きつ戻りつ、少しずつ寒さがほどけて春らしくなっていく。春夏秋冬、それぞれに移ろう時季を楽しむ季語はあれど、冬から春にかけての変わり目は、特に語彙が豊かなように思う。

春先に強い風が吹けば、SNSのトレンドワードに「春一番」があがる。
気象庁の定義では、立春から三月半ばごろまでに、日本海に発達した低気圧により最初に吹いた南よりの風。もともと西日本の方言だったものを民俗学者の宮本常一が採集し、歳時記で紹介されるようになったという。全国的には比較的新しい言葉だが、いやだからこそなのか、現代では季節の言葉として定着している。

天気予報といえば「暦の上では春ですが、」という定型句もよく使われる。我々はなんとなく春は暖かいものと思い込んでいるけれど、立春を過ぎても暖かい日はなかなかやってこない。だから「名のみの春」などという言葉まで使ってしまうのだが、実はこれも吉丸一昌作詞の唱歌「早春賦」で広まった新しい言葉らしい。
以前、別の場所にも書いたが、一年を四等分した暦本来の意味からすれば本末転倒でも、「名のみの春」の感覚は現代人には広く支持されている。
季節や暦の感覚が乏しくなった時代だからこそ生まれたり、再認識されるようになったりする言葉がある。
歴史の浅い、バーチャルな季語を嫌う人もいるけれど、新しい、軽い手ざわりも捨て難い。そして多くの人に愛されて、厚みを増していくのだ。


ウラハイ = 裏「週刊俳句」月曜日の一句 久留島元の一句