現代詩の雑誌、といえばいいのか、『ユリイカ 詩と批評』(青土社)の10月号を購入。
特集「現代俳句の新しい波」。
千野帽子、堀本裕樹、川上弘美、各氏の鼎談、
池田澄子氏へ佐藤文香が迫るインタビュー、
角川春樹氏の語る「魂の一行詩」、
高柳克弘、神野紗希、山口優夢、佐藤文香、長嶋有、せきしろ、又吉直樹(ピース)、山口一郎(サカナクション)、ほかの作品、
池内紀、青木亮人、佐藤雄一、高柳克弘、神野紗希ほかの論考、
などなど、盛りだくさん。
俳句専門誌以外でここまで俳句が特集される、というのはとても珍しいことのように思います。
普段「俳句」誌などではお目にかかれない感じの「外」へ向かうアピールがあって、そういう意味ではとても面白い。
基調としては千野氏、堀本氏、長嶋氏らの「東京マッハ!」が流れているようですが、川上弘美氏が入っているのが個人的には嬉しいし、青木氏らの硬質な論考が専門誌以外で読めるのも『ユリイカ』ならでは。
千野氏も指摘しているとおり、俳句実作者の書く俳句紹介の文章というのは、なんだかんだ言っても「内(俳句界)」の目を気にするというか、従うにせよ反発するにせよ、「中」の人のプライドとして「外」に向かって変なことは書けない、という意識は出るだろう。それはどの業界でも、専門家というのはそういうもんだろう、と思う。
千野氏がまったく「外」の人か、というともちろんそうではなく、しきりと「外の人」を自称し、自分の意見を「誤解」「個人的見解」と限定されるのは実は「俳壇」へのエクスキューズなんだろうな、とは思う。しかし、実作者、専門家の人たちの書く文章とは微妙に強調のポイントが違っていて、つまり、それが「外の言語」ということなのだろう。
鼎談の中では川上氏が
ただ、反対にちょっと言うと、それが楽しくあるためには、文法が間違っていないとか季語がなんとなく分かってるとか最低限のルールはおさえておく必要があるよね。ルールがないのは、楽なようでいて、実は面白くない。と発言されている。たぶん、「中」の人は「外」を排除するつもりはなくても「最低限のルール」を守りたい、と思っているところがある。だから往々にして「ルール」を強調してしまい、結局いずこも同じ秋の暮、よくある「俳句入門書」になってしまう、のではないか。
千野氏や、池内氏らの文章ではそのあたりが違っていて、本当に「面白い作品」「面白いエピソード」を前面に推して紹介する、いわば書評家的なスタンスに見える。
論考篇では、ツイッター界隈で見かけるお名前が多く、ツイッターでちらほら見た内容が反映されていたりする。このようにツイッターから文章へ、媒体変わって残っていく、というのはとてもいいことだと思う。結局ネットの情報は「流れていく」から、やはり「論考」は文章で読みたい。
ところで、まったく俳句と関係ないところで研究会をご一緒している先生の名前が入っていたのがびっくり。内容的にも俳句と関係なくて……うーん、なんでこれが特集に入ったんだろう?
それにしても、なんというか、「外」というくくりで、角川春樹と池田澄子が並ぶ図、というのは、たぶん「俳句」の文脈からいうとありえなくて、しかもどちらも無季俳句に言及している辺り、読み合わせるとなかなか趣深い。
春樹氏の力強くも独断的な発言の数々は、面白いけれど額面通りに受け取れず、しかしなかなか考えさせるものがある。賛成するつもりはないし、我利我利で無根拠であきれかえるようなものも含めて、しかしいくつか印象的な発言を。
いまではかつて前衛だった金子兜太さんでさえほぼ有季定型になっているわけです。
二〇〇以上にもなる結社誌に載っているどの作品を読んでみても突き刺さってくるものが何もない。
ほぼ九〇パーセントの句にとっては季語が命ですよ、それは事実だけども、季語が入りようのないものにも無理矢理季語を入れなければならないというのはおかしい。
ほかの伝統結社には有季定型も含めてこれはしちゃいけない、あれはしちゃいけないというルールが一〇〇以上はあるんですよ、
中上健次も「人間の命と魂を詠わない限り、それは詩歌ではない」とーわたしの影響がかなりあるんだけどもー断言している。
いまの俳句はわたしを覗けば一〇〇パーセント近くは俳壇にしか目が向いてない。
誰かの詩とわたしの作品を二つ並べて、一般の詩の好きな人でもいいし、読書人でもいい、一〇人いてどちらを選ぶかと言ったら、一〇人が一〇人わたしの詩を選びますよ。