2011年9月27日火曜日

ユリイカ

 
現代詩の雑誌、といえばいいのか、『ユリイカ 詩と批評』(青土社)の10月号を購入。

特集「現代俳句の新しい波」。

千野帽子、堀本裕樹、川上弘美、各氏の鼎談、
池田澄子氏へ佐藤文香が迫るインタビュー、
角川春樹氏の語る「魂の一行詩」、
高柳克弘、神野紗希、山口優夢、佐藤文香、長嶋有、せきしろ、又吉直樹(ピース)、山口一郎(サカナクション)、ほかの作品、
池内紀、青木亮人、佐藤雄一、高柳克弘、神野紗希ほかの論考、

などなど、盛りだくさん。

俳句専門誌以外でここまで俳句が特集される、というのはとても珍しいことのように思います。
普段「俳句」誌などではお目にかかれない感じの「外」へ向かうアピールがあって、そういう意味ではとても面白い。
基調としては千野氏、堀本氏、長嶋氏らの「東京マッハ!」が流れているようですが、川上弘美氏が入っているのが個人的には嬉しいし、青木氏らの硬質な論考が専門誌以外で読めるのも『ユリイカ』ならでは。

千野氏も指摘しているとおり、俳句実作者の書く俳句紹介の文章というのは、なんだかんだ言っても「内(俳句界)」の目を気にするというか、従うにせよ反発するにせよ、「中」の人のプライドとして「外」に向かって変なことは書けない、という意識は出るだろう。それはどの業界でも、専門家というのはそういうもんだろう、と思う。
千野氏がまったく「外」の人か、というともちろんそうではなく、しきりと「外の人」を自称し、自分の意見を「誤解」「個人的見解」と限定されるのは実は「俳壇」へのエクスキューズなんだろうな、とは思う。しかし、実作者、専門家の人たちの書く文章とは微妙に強調のポイントが違っていて、つまり、それが「外の言語」ということなのだろう。

鼎談の中では川上氏が



ただ、反対にちょっと言うと、それが楽しくあるためには、文法が間違っていないとか季語がなんとなく分かってるとか最低限のルールはおさえておく必要があるよね。ルールがないのは、楽なようでいて、実は面白くない。
と発言されている。たぶん、「中」の人は「外」を排除するつもりはなくても「最低限のルール」を守りたい、と思っているところがある。だから往々にして「ルール」を強調してしまい、結局いずこも同じ秋の暮、よくある「俳句入門書」になってしまう、のではないか。

千野氏や、池内氏らの文章ではそのあたりが違っていて、本当に「面白い作品」「面白いエピソード」を前面に推して紹介する、いわば書評家的なスタンスに見える。

論考篇では、ツイッター界隈で見かけるお名前が多く、ツイッターでちらほら見た内容が反映されていたりする。このようにツイッターから文章へ、媒体変わって残っていく、というのはとてもいいことだと思う。結局ネットの情報は「流れていく」から、やはり「論考」は文章で読みたい。
ところで、まったく俳句と関係ないところで研究会をご一緒している先生の名前が入っていたのがびっくり。内容的にも俳句と関係なくて……うーん、なんでこれが特集に入ったんだろう?



それにしても、なんというか、「外」というくくりで、角川春樹と池田澄子が並ぶ図、というのは、たぶん「俳句」の文脈からいうとありえなくて、しかもどちらも無季俳句に言及している辺り、読み合わせるとなかなか趣深い。
春樹氏の力強くも独断的な発言の数々は、面白いけれど額面通りに受け取れず、しかしなかなか考えさせるものがある。賛成するつもりはないし、我利我利で無根拠であきれかえるようなものも含めて、しかしいくつか印象的な発言を。



いまではかつて前衛だった金子兜太さんでさえほぼ有季定型になっているわけです。


二〇〇以上にもなる結社誌に載っているどの作品を読んでみても突き刺さってくるものが何もない。


ほぼ九〇パーセントの句にとっては季語が命ですよ、それは事実だけども、季語が入りようのないものにも無理矢理季語を入れなければならないというのはおかしい。


ほかの伝統結社には有季定型も含めてこれはしちゃいけない、あれはしちゃいけないというルールが一〇〇以上はあるんですよ、


中上健次も「人間の命と魂を詠わない限り、それは詩歌ではない」とーわたしの影響がかなりあるんだけどもー断言している。


いまの俳句はわたしを覗けば一〇〇パーセント近くは俳壇にしか目が向いてない。


誰かの詩とわたしの作品を二つ並べて、一般の詩の好きな人でもいいし、読書人でもいい、一〇人いてどちらを選ぶかと言ったら、一〇人が一〇人わたしの詩を選びますよ。


2011年9月25日日曜日

俳句ぽさって説明しにくい


更新さぼってました、すみません。

思うところはいろいろあるのですが、なんとなく気乗りしないうちにどんどん日数が。こんなblogでも見てくださっている皆さんには申し訳ない限りです。

サボっていると如実に出るのが閲覧(アクセス)数の減り方。
逆に、たまにハネ上がるときがあって、それはたいてい、どこかのblogかTwitterでとりあげられたときである。
最近だと、9月10日にアクセスが増加していて、ふじみん(俳号:藤実)さんのblogでとりあげていただいていた。→そろそろそぞろ歩き:秘密という密


ここでは千野帽子氏の発言と拙文とをからめて話題にしていただいたが、記事を書いた時点では千野氏の発言については知らなかった。



俳句はおもしろいのに、その具体的なおもしろさが、俳句の世界の外にいる私のような一般人にはなかなか聞こえてこない構造になっています。俳句の世界の人は俳句のおもしろさを秘密にしすぎでしょ。
千野氏が「外」の人なのかどうか、とか、細かいところは抜きにして、俳句の面白さをもっと「外」に知って貰いたい、という私自身の立場としては、千野氏の発言にはまったく賛同する。
しかし冷静に考えてみると俳句の「おもしろさ」を「伝える」動きというのは業界ではすさまじい勢いで行われているわけで、それぞれの立場でそれぞれ行われているものだから大型書店の俳句コーナーだとか各種文化講座だとか、世の中に「初心者向け」の「俳句入門」はあふれかえっている。
もちろん、私としてはそうした講座で伝えられる「おもしろさ」以上の「おもしろさ」がある、と思うのだが、それも特殊なものではなく、たとえば小林恭二、坪内稔典、夏井いつき、といった諸氏によって紹介の努力がされている。
決して、「秘密」にされているわけではないのである。(むろんこれらはあくまで入り口であって奥にはもっといろんな「おもしろさ」があるのだが)。
それでも「俳句」が「秘密」に見えるとしたら、それは何なのだろう。

明らかに現代詩よりも短歌よりも、場合によっては一部の小説よりも膨大な「俳句人口」を抱えながら、それでも「俳句」が卑屈に「内向き」の文芸であり続けている、あるいはそのようなイメージで捉えられている、とすれば、それは何が原因なのだろう。
あるいは、これほど各結社が汗水垂らしても伝えられない俳句のおもしろさって、どうすれば説明できるのだろう。



と、おそらくそんなところに引っかかるのは、最近「川柳」というお隣さんのことを知ったせいでもある。
実は先日、名古屋で川柳のバックストローク大会にお邪魔してきた。

大会の第一部、シンポジウム「川柳が文芸になるとき」に関しては、ぼんやりしている間にふたつも緻密なレポートが出ているので参考にしていただきたい。
週刊「川柳時評」:川柳が文芸になるとき
週刊俳句 Haiku Weekly: 名古屋座談会印象記 野口 裕

当日、パネラーの湊さんがしきりとくり返していたのが、「川柳はインフラ整備が不充分だ」ということである。
確かに、ちょっと川柳作品を読んでみたいと思っても、なかなかいい本がない、と思う。
私はもともと不精な性質なので、俳句にしても個人句集よりもアンソロジーばかり読んでいるが、川柳はその手法が効かないので困っている。
大部なものは西村麒麟さんが紹介している東野大八『川柳の群像 明治大正昭和の川柳作家一〇〇人』(集英社、2004)があるが、作家紹介がメインなので引かれる作品が少ない。
ほかに『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000)などを買ってみたが、なにしろ「21世紀へ」と副題があるくらいで、「昭和二桁生まれの作家を対象」(それも凄い括りだが)とした28人なのでおのずから限りがある。
ちなみに両書をあわせても、もっとも有名な川柳作家の一人と思われる時実新子や、善し悪しはあっても有名なやすみりえ、俳句界にはなじみ深い大西泰世、といった名前が入集していないのであり、とても全体を俯瞰するには足りない。

とすると、さしあたって管見のかぎりでは『セレクション柳論』(邑書林、2009)、樋口由紀子『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011)の二書を参考に、地道に一冊ずつ句集を探すしかないことになる。

最近、俳句を、もっとも俳句らしく見せている「俳句っぽさ」とは何か、と考えている。
少なくとも「俳句」に関しては、各種の手引き書やアンソロジーを入り口に、少しずつ奥へ分け入り、「俳句のおもしろさ」の正体を追って行ければ、少なくとも「どこか」へは至るだろう、という予測がたつ。
ところが、川柳にはそれがない。私がズブの初心者だからそう特にそう思うのだろうが、果たして川柳の「川柳っぽさ」は、どこに求められるのだろうか。



そのようなこととはほとんど関わりなく、俳句愛好者としての私にとってはとても面白く読める若手の句集が二冊。

中本真人『庭燎』(ふらんす堂)。

山口優夢『残像』(角川学芸出版)。

ともに『新撰21』(邑書林)に掲載された若手二人が、数年を経ずして、出版社も違うところから句集が出版される。同世代のパワーを感じて、それだけでも嬉しい。
もちろん、内容も面白い。
正直、論評したくないくらいで、たぶん、更新頻度が落ちたのもそのせいである。

厳選されているためだろう。
それぞれの作者のキャリアからすれば、掲載作品は決して多くない。そのぶん濃厚な部分が凝縮されていて、味わいは違うが、作者のカラーを堪能できる句集に仕上がっている。
それぞれの作品については、すでに名鑑賞がそろっているので贅言を尽くすことは避ける。
配列や句風の変化についてすこし考えたことがあるが、別稿に譲り、以下、それぞれ三句ずつあげるにとどめる。

『庭燎』
 傀儡のぺたりと倒れすぐ起きる
 落第の一人の異議もなく決まる
 ニュースにもならずだらだら祭果つ

『残像』
 どこも夜水やうかんを切り分ける
 目の中を目薬まはるさくらかな
 野遊びのつづきのやうに結婚す



でも、この二冊のおもしろさは「外」の人にはちょっと紹介しにくいかなぁ・・・。
 

2011年9月13日火曜日

鬼貫 & 淡路

↓ ↓ ひきつづき、やっております。ご覧下さい ↓ ↓

曾呂利亭雑記: 頒布のお知らせ


 

今年も募集が始まっておりました。
10月6日〆切とのことです。

(財)柿衛文庫HPより。


芭蕉とほぼ同じ時代を生きた上島鬼貫は、10代から盛んに俳句を作り、自由活発な伊丹風の俳句をリードしました。
柿衞文庫では、開館20年を機に今日の若い俳人の登竜門となるべく「鬼貫青春俳句大賞」を2004年から設けました。

●募集要項● 
☆応募規定・・・俳句30句(新聞、雑誌などに公表されていない作品) 

☆応募資格・・・15歳以上30歳未満の方(応募締切の10月6日時点) 

☆応募方法 
 ● 作品はA4用紙1枚にパソコンで縦書きにしてください。 
 ● 文字の大きさは、12~15ポイント。 
 ● 最初に題名、作者名、フリガナを書き、1行空けて30句を書く。 
  末尾に本名、フリガナ、生年月日、郵便番号、住所、電話番号を書く。 
 ● 郵送またはFAXで下記まで。  
※ 応募作品の返却には応じません。また、応募作品の到着については、必ずご確認くださいますようお願いいたします。    
  財団法人 柿衞文庫(ざいだんほうじん かきもりぶんこ)   
  〒664-0895 伊丹市宮ノ前2-5-20 
  電話/072-782-0244  FAX/072-781-9090 

☆応募締切・・・2011年10月6日(木)必着 

☆選考・表彰・・・2011年11月3日(木・祝) 午後2時~5時
      於 柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)  

● 下記選考委員(敬称略)による公開選考[どなたでもご参加いただけます。]
     稲畑廣太郎(「ホトトギス」副主宰)
     山本純子(詩人)
     坪内稔典(柿衞文庫也雲軒塾頭)
     岡田 麗(柿衞文庫副館長)
     (社)伊丹青年会議所
             以上 5名(予定) 
 
● 賞
  大賞1名〔賞状、副賞(5万円の旅行券)、記念品〕
  優秀賞若干名〔賞状、副賞(1万円の旅行券)、記念品〕
  エフエムいたみ開局15周年特別賞1名(賞状、副賞)

主催 財団法人
柿衞文庫、也雲軒共催 伊丹市、伊丹市教育委員会後援 伊丹商工会議所、伊丹青年会議所協賛 エフエムいたみ(伊丹コミュニティ放送株式会社)




あ、ついでにこちらも興味ある方はどうぞ。
江渡華子&神野紗希の「バイクで俳句」、第二弾です。詳細は
こちら



ねらい:四国八十八か所一番札所霊山寺を振り出しとして、三番札所金泉寺までを巡りながら吟行し、体験から紡ぎだされた言葉(俳句)の向こう側にある想いをさぐるワークショップを開き、言葉の生まれる瞬間を共有する。
日 時:平成23年10月8日(土)~10月10日(月)
場 所:国立淡路青少年交流の家
対 象:高校生、大学生、一般
人 数:20名(先着順)
費 用:4,000円※情報交換会に参加される方は別途1,500円を徴収します。
(20 歳未満の方は1,000 円を徴収します)
募集期間:平成23年9月12日(月)~9月25日(日)※募集定員に達し次第締め切ります

お問い合わせ 国立淡路青少年交流の家
〒656-0543 兵庫県南あわじ市阿万塩屋町757-39
TEL:0799-55-2696
FAX:0799-55-0463
H P:http://awaji.niye.go.jp/



2011年9月8日木曜日

俳句の楽しみ。


笑った。
 
本読みHPブログ 俳諧ガールのための雑誌「Haine(ハイネ)」


こーゆー一発ネタに反応するのはツイッターのほうが便利なんやなー、と思いつつ、敢えてのブログ投稿。
spicaもちょっとオシャレな感じで、俳句に興味なくても文系女子にアピールする力は充分あると思いますが、なるほどフリーペーパーか。黛まどか氏の『ヘップバーン』がちょっとその方向だったんでしょうけど、いっそ突き抜けてるならこっちのほうがいいか。

さすがに「男子」ネタは難しかろうと思われ、「女子」という言葉の力を改めて思わせる。
男なら「男子」をターゲットにするより、「Haine」読者にモテるような「オヤジ」を作るほうが、たぶんてっとりばやい。やっぱり吉田類氏山田真砂年氏推しで、中高年狙いの若い女性が句会に集まるような。……あれ、ふつうの句会と変わらないか(それはそれで問題アリ)

ちなみに、以前紹介したこともあるが、この人のやってるオタク俳句というのも結構面白いので、こちらも引き続きウォッチしていきたい。




「俳句」の枠を広げていきたい、ということを、よく言う。
広げて、もっと「俳句」をいろんな角度から楽しむ人がいてよい、と思う。


私の場合、俳句を読むときの楽しみは二つある。
これは、俳句に関わり続けている理由とほぼ同義である。


一つは、言うまでもなく今まで見たことの無いような俳句に出会う期待。
俳句表現史の「変わる」瞬間に立ち会えるのではないか、俳句進化の現場に行き会えるのではないか、という期待である。
こちらはまあ、めったと味わえるものではないが、それでも句集を読んだり、句会の最中に何か可能性を感じることはあって、 この方向に俳句が転がったらどうなってしまうのだろうか、と不安と期待でワクワクするようなことがある。
それが自句であれば言うことはないが、自句でなくとも同時代的に出会えるのであれば、そんな幸福なことはない。私は、いつか俳句史の転換期の「当事者」になりたいのである。

もう一つは、もっとハードルの低い「ちょっといい句」に出会う喜びである。俳句史に刻まれるような句ではなくとも、句会に出て、一句に出会えれば嬉しい。
取り合わせの強引さに笑ってしまう句がある(きっと時間切れだったのだ)。既視感もあるがきれいにできあがっている句というのもある(熟練の技である)。あざとすぎて笑ってしまうような句、定型音律に載せただけで口ずさみたくなる句、いろいろな句がある。
ときどき、俳句なのかそうでないのか、何がいいのかよくわからない、という句もある。よくわからないが、目にとまる、耳に残るから「いい」というような、そういう句である。
正直なところ良い句とも思えないが、作者を重ねるとなんだかほっこりする、そういう句だってある。作者を聞いてギャップに驚いて、それで覚えてしまう句、というのもある。

文字通り、句会ごとに消費されていく句である。
コミュニケーション手段としての俳句である。
桑原武夫が勝ち誇って、「そういうのはフランスでは芸術と言わないんだよ!」とか言い出しそうな、そういう句である。
ところがそういう句に出会えるのが面白くて、なんとなく句会へ出掛けてしまう。
それも俳句の楽しみである。

俳句に両面があることは、すでに多くの人間が気付いているだろうが、果たしてこの両面は、表と裏のような相反する関係だろうか。あるいは+と-のような、異なる二つのベクトルなのだろうか。それともまた、前者を頂点とするピラミッドのような上下関係にあるのだろうか。
おそらく違うと思うのだが、まぁ説明モデルがうまくできたからといって本質が究明できるかどうかは別問題なので(つまり「巧く言ったった」かどうかだけなので)、深入りはしない。




あ、関西俳句なう 第14回俳句甲子園特集もよろしくお願いします。


2011年9月7日水曜日

頒布のお知らせ


唐突ですが。
家の関係で誓子関係の本の在庫が結構たくさんありますので、この場で頒布のお知らせをさせていただきます。

対象品は、

・山口誓子『自作案内』(増岡書店、1953)

・遺句集『新撰 大洋』(思文閣出版)

・『天狼』終刊号(47巻1号)

・『山口波津女全句集』(本阿弥書店)

です。
送料のみ(着払い)でお譲りいたします。
各5冊まで、先着順とさせていただきます。
必要な書名、冊数と、住所、連絡先をお知らせください。

連絡先:nurarihyon85@ほっとめーる.com(平仮名を変換してお送りください)
(在庫状況など、個人的に久留島連絡先をご存知の方は問い合わせていただいて構いません)