2015年3月28日土曜日

関西俳句なう


むかしむかし・・・

関西俳句なう」というHPがありました。

「船団の会」所属の若手会員6人が、関西(西日本)ゆかりの若手作家の句を毎日一句ずつ紹介するというもので、2011年1月1日から12月31日まで、1年間活動していました。

「関西」「若手」といったキーワードにこだわったのは、既存の「俳壇」「俳句メディア」に対するアンチテーゼ、マイノリティとしての自己主張でした。
すでに俳句甲子園出身生の活躍や、若手を対象とした俳句賞の設置などで同世代の作家に注目が集まっていましたが、どうしても注目は関東近郊に住む作家に集中しており、地方に住む作家は、実力に比べてスポットがあたることが少ない、と感じていたからです。
これは、関東の人たちが意識してやっていることではありません。
誰だって面白い作家に会いたいし、関東で活躍している作家のなかには地方出身の作家もたくさんいる(むしろ東京在住者の多くが地方出身者)。
しかしコストや物理的距離を考えると、やはり地方に目を向ける余裕は少ない。ごく自然な流れなのですが、むしろ無意識だからこそ、対処できない。改善しない。

だからこそ、あえて「関西」「若手」というマイノリティを前面に出し、いささかの押しつけがましさ、カッコ悪さを感じつつも「関西俳句なう」というテーマ、キーワードで、活動してきたのだ、と、改めて言うことができます。

「関西俳句なう」の活動がわずか1年間で終了したのは、実は「船団の会」が企画する書籍化をめざした企画だったからでした。
情報がどんどん流れていってしまうインターネットではなく、書籍という形で、きちんと若手の作家たちをとりあげたい、という意図があったのです。

しかし、諸般の事情で書籍化は遅れに遅れ、いつしか人は「関西俳句なう」のことも忘れ果ててしまいました。。。



2015年3月。

「関西俳句なう」は、ついに書籍化されました。



帯が映っている書影がなかったので、個人撮影でご容赦ください。

本阿弥書店さんより、1600円(税別)。
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106520130/subno/1
加納綾子VS黒岩徳将 
二木千里VS三木基史 
山本たくやVS手嶋まりや 
山本皓平VS山澤香奈 
藤田亜未VS涼野海音 
久留島元VS岡田一実 
舩井春奈VS伊藤蕃果 
藤田俊VS乘富あずさ 
河野祐子VS羽田大佑 
中谷仁美VS森川大和 
工藤惠VS杉田菜穂 
塩見恵介VS若狭昭宏 
朝倉晴美VS新家月子

「船団の会」所属の若手作家13名と、
関西(すこし広げて西日本)の若手作家13名の、
往復書簡形式による作品50句と作品評が中心となり、
また「船団の会」会員によるミニエッセイがたっぷり詰まった本です。


内容については、実は基本的には企画当初の2012年初のままなのですが、発刊が遅れるなかで2015年現在を最大限、現実路線の中、掬う努力や微修正がなされたもの、と理解しています。
人選、惹句、コンセプト、等々、多くの議論を重ねた上での結果なので、今はただ、無事の出版に、感謝することがいっぱいです。

収録作家のなかには、2012年から2015年までの間に、おおきく注目度が変化された方もいます。単純に受賞や句集を出されただけでも、

 黒岩徳将(第5回、第6回石田波郷新人賞)
 山本たくや『ほの暗い輝き』
 涼野海音(第4回北斗賞)『一番線』
 岡田一実(第32回現代俳句新人賞)『境界』
 杉田菜穂『砂の輝き』
 藤田俊(第5回船団賞)
 工藤惠(第6回船団賞)

など。

しかし、それ以外にもまだまだ面白い作家たちの作品と、本音が、しっかりと反映された本になりました。


「東京がなんぼのもんじゃい」


あえての「関西俳句なう」、お楽しみいただければ幸いです。



参考.
【エンタがビタミン♪】“東京に魂を売った芸人”はFUJIWARA・藤本敏史。大阪人の多くが回答。
http://tairyudo.com/tukan02/tukan3195.htm


2015年3月21日土曜日

かみがた


桂米朝さんが亡くなった。

高座に上がられなくなって、入退院をくり返しているという記事は何度か目にしていたので、突然の訃報にも、驚きはそんなにはなかった。
ただ、落語ファンとしては年季の浅い私でさえ、ひとつの時代が終わった、という空虚感でぼんやりしてしまう。
落語は、子どものころはテレビでやっているのを見るものだったが、たしか高校のときに枝雀さんが亡くなり、「生きているうちに聞きに行かないと死んでしまう」と思った。
それから米朝一門会に何度か見に行っているので、幸い、米朝さんの高座には間に合った。それでも、先代・桂文枝さんや、桂吉朝さんには、間に合わなかった。

「百年目」の、優しくて粋な「旦さん」が好きだった。これは幸い、ビデオテープにも録画がのこっている。
高座で「…いま思い出しましたけど」と言って始まる枕の小話が、好きだった。演出なのか本当かわからないが、「いま」だから聞ける、という喜びがあった。
「地獄八景」や「はてなの茶碗」は、米朝さんのを見ることはできなかったが、米朝さんが復活させてくれたから楽しむことができている。
米朝さんが上方落語を守ってくれた、そのあとで生まれてよかったとつくづく思う。
米朝さんの落語を聞き、楽しめる時代に育ったことを、本当に感謝している。



朝日新聞大阪版の本日(3/20)記事のなかで、米朝さんが連載していた「米朝口まかせ」(2005年9月~2013年11月)からの発言がいくつか引かれている。


いろんなものが東京中心になっている関東と違い、関西は大阪、京都、神戸とそれぞれに異なる文化の味が残っています。これはええことやないかな。
(09年2月)

落語家の師弟関係というのは不思議なもんやで。筋のええ弟子であればあるほど、育てば、やがて師匠にとってもライバルになるんやさかいね。私の一門でも、枝雀はそうでしたな。
(09年6月)



「江戸(東京)落語」に対して、「上方落語」という。
「上方」は、京都・大阪の文化を総じての言い回しである。
大阪は船場を中心にした商人文化であり、京都は町衆と公家が作る都の文化である。神戸の港町文化は明治からこっちとしても、関西人と一括りにできないのは、それぞれがそれぞれ別々にプライドを持っているからだ。これが関東では、鎌倉、横浜がいくらがんばっても、やはり東京に対抗できる、ということはありえない。
そのためだろうか、関西人気質というのは、どこか一極集中ではなく、よくいえば多様性があり、悪くいえばまとまりに欠ける。

俳句界も、そんなところがあるのではないか。

宇多喜代子さんがよく主張している、関西の融通性、波多野爽波が前衛俳人たちと付き合って現代俳句協会へ加盟するような、阿波野青畝や山口誓子がいつまでも日野草城と友情を保っていられるような、そんな気質は、やはり「上方」、関西の風土だと思う。
宇多さんに言わせるとそれは「大阪が町人文化だから」となるのだが、私は上に述べたような、中心地のない(あるいは中心が複数ある)文化だからだと思っている。

なんというか、東京の俳句界では一つのスタートがあって一つゴールがあってみんなで駆けっこをしているのだが、上方では、スタートとゴールがたくさんあるなかでいっせいに競うような、ところがあると思う。
近ごろ勉強した大正末年あたりを想起すれば、東京は丸の内にホトトギス本社がありすべての耳目がそこを中心にしていたように思う。
しかし関西には巨人がいないかわり、子規時代の生き残りである松瀬青々、青木月斗がおり、一方で京都ではホトトギスの新鋭が育ちつつあり、大阪では財界人が俳句を楽しんでおり、というような、そんな価値観の並立を許す独特さが、ある。
イスとりゲームでひとつとり負けても他のイスがあるというような、いやむしろ、イスの取り合いに夢中になっている人たちを茶化して笑ってしまうような、そんなところがあるのが、上方の強みなのではないか。




追記。
関西から東京へ移られてずいぶん長い、関西人な西原天気さんが、当記事に言及してくれていました。
週刊俳句 Haiku Weekly: 後記+プロフィール413

2015年3月18日水曜日

THE HIGH-LOWS頌


THE HIGH-LOWSが好きだ。

BLUEHEARTSの曲は泣きたくなるほど好きだが、HIGH-LOWSの曲はいつも口ずさみたくなる。

HIGH-LOWSの結成はTHE BLUEHEARTSの解散した1995年。
BLUEHEARTSに熱狂した私が、主要メンバーを同じくするHIGH-LOWSを好きになるのは当然の流れだったが、実際には若干の時間を要した。

高校生時代に聞いたHIGH-LOWSは、BLUEHEARTSと比較すると軽薄に感じられたからだ。
想像力 それは愛だ 歴史の果てまで 
漂白剤ぶちまけるぜ 世界の果てまで
                         「コインランドリー」
BLUEHEARTSの名曲「1000のバイオリン」は、次のように始まる。
ヒマラヤほどの消しゴムひとつ 楽しいことをたくさんしたい 
ミサイルほどのペンを片手に おもしろいことをたくさんしたい
「1000のバイオリン」

ここで出てくるアイテムが「消しゴム」「ペン」の順であることは象徴的だ。
BLUEHEARTSにとっての現実世界は、なによりまず消されるべきもの、そして描き直されるべきものであった。伴走者は「ハックルベリー」(※1000のバイオリン)であり「ほら男爵」(※俺は俺の死を死にたい)だった。

世界と対峙し、書き直してしまう英雄的なBLUEHEARTSに比べ、「コインランドリー」で洗濯物を眺めながら漂白剤をぶちまける中年男の姿は、いかにも滑稽に映った。

ところが、HIGH-LOWS「バームクーヘン」では、そうした価値観がまったく覆る。
鳥は飛べる形 空を飛べる形 
僕らは空を飛ばない形 ダラダラ歩く形 
ダビンチのひらめきと ライト兄弟の勇気で 
僕らは空を飛ばないかわり 月にロケットを飛ばす
「バームクーヘン」
しばしば我々は、大空を飛ぶ鳥に憧れ、翼が欲しいと願う。
しかしHIGH-LOWSは、「翼を持って生まれるよりも 僕はこの両手が好き」と歌うことに成功した。
叶わぬ夢を夢見る子どもではなく、自ら夢を叶えてきたことを誇る大人のたくましさが、そこにあった。
そのことに気づいたのは、私が大学生になってからだった。

以来、私はむさぼるようにHIGH-LOWSを聞くようになった。
それでもBLUEHEARTSに較べると、やや生硬で直接的すぎる表現が好きになれないこともあった。
会社にもバカがいる インターネットにバカがいる 
どこにでもバカがいる  子供でも知ってるよ
「バカ(男の怒りをブチまけろ)」

バカテレビやバカ雑誌に生き方を教わる 
キミは何だ オレはパンダ 上野で待ってるぜ
だがその直接すぎる力強さに、何度も救われたのも事実であった。
月光陽光 俺を照らすよ 
月光陽光 なんて力強く

アネモネ男爵 退屈を知ってる 
他人のために生きる 退屈を知ってる
「アネモネ男爵」

かつて青春の真ん中で「見えない自由」を欲したバンドは、いつしか青春そのもの(cf.
青春、岡本君)を歌う立場になった。青春を美化して歌えるのは、むろん青春を過去のものとして眺められる「大人」の視点を持ったからだ。

子どものころに わかりかけてたことが 
大人になって わからないまま

一人で大人 一人で子供

彼らはもう無理解な「大人」に対する「子ども」ではなかった。「子ども」の時代を経てしかも失わず「大人」になった彼らは、まさに無敵である。

  考えは変わる青のり一つまみ  塩見恵介
  西日暮里から稲妻みえている健康  田島健一

「大人」たちは社会と戦い、罵倒し、疲れきり、ときに青春を苦く懐かしみながら、しかし確かな現実を生き、たくましく謳歌していく。そんな「大人」のRockが、HIGH-LOWSだった。
まっすぐ歩かないから まっすぐ歩けないから 
僕が歩いたあとは 曲がりくねった迷路 
迷路 迷路 迷路 迷路 
 「迷路」

おーい おっさんおっさん そんなに目クジラ立てて 
おーい おっさんおっさん 血走った目で
一服しようよ 短気は損気 
カッコイイ音で 高速充電 
「俺軍、暁の出撃」

ちなみに私は「Born To Be Pooh」を、人生のテーマソングと定めている。

みんながあっと驚くような 大発見するかもしれない 
Born To Be Pooh 
Born To Be Pooh 
「Born To Be Pooh」


2015年3月11日水曜日

THE BLUEHEARTS賛


THE BLUEHEARTSが好きだ。

校歌斉唱やバースディソングの合唱さえ躊躇う、自他の認める「絶対音痴」で、古典はもちろん洋楽にもJ-POPにもほぼ関心のない私が、THE BLUEHEARTSのアルバムCDだけはすべて購入している。
ほかに聞くのはHIGHーLOWSとクロマニヨンズくらいだから、文字通り偏愛である。


THE BLUEHEARTSの結成は私の生まれた1985年。
解散は10年後で、「リンダ・リンダ」や「TRAIN TRAIN」「情熱の薔薇」など全盛期の曲を聞く機会もあったはずだが、記憶がない。

私がはじめて彼らを認識したのは中学校に入ってから。
入部した文芸部の部室で、なぜか毎日大音量でかかっていたのが「THE BLUEHEARTS SUPER BEST」だった。
ハンマーが降りおろされる 僕たちの頭の上に 
ハンマーが降りおろされる 世界中至るところで
私の母校は中高一貫で、当時文芸部には高校生の先輩が数名所属しているだけだった。
そのうちひとりが趣味でバンドもしているロック好きで、CDはその先輩が持ち込んでいたのだった。

はじめ騒音にしか聞こえなかったものが、やがて歌詞に惹かれて口ずさむようになり、貸借してから購入に至るまでは長くかからなかった。
トゥー・トゥー・トゥー・・・・・・ 
どこまで行くの 僕達今夜このままずっと 
ここにいるのかはちきれそうだ 飛び出しそうだ 
生きているのが すばらしすぎる

生きるということに命をかけてみたい 
世界がはじまる前 人はケダモノだった
音楽といえばアニメのOP、EDくらいしか聞かなかった思春期の文系オタクに、彼らの歌はまず生命賛歌として響いた。
すべての僕のような ロクデナシのために この星はぐるぐると回る
THE BLUEHEARTSが、いわゆる「不良少年」たち(cf.「ろくでなしBLUES」「クローズ外伝 リンダリンダ」)から、コミュ障文化系(Cf.伊集院光穂村弘)にいたるまで幅広く熱烈に支持されているのは、彼らがマイノリティの立場をやや自虐的に、しかし力強く肯定したことに由来しよう。
自らを「ロクデナシ」と規定し、マイノリティとしての「生」と「愛」を歌うBLUEHEARTSは、多くのジャンルに普遍の青春の鬱屈を、独特の形で表現した。

折しも神戸連続殺傷事件など少年犯罪に関する報道が過熱であった。

少年の声は風に消されても ラララ間違っちゃいない 
そしてナイフを持って立ってた そしてナイフを持って立ってた
BLUEHEARTSの歌は事件よりはるか前に作られたものだったけれど、その鬱屈は確かに共有されたのである。
見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる 
 「TRAIN TRAIN」
70年代の「政治の季節」はすでに遠く、バブルの狂騒から、すでに崩落が起きつつあった。

THE BLUEHEARTSが歌いあげたのは、これから何にでもなれる若さのすばらしさと、現実には何も持っていない、何をするにも無力な、若者の切ない悲鳴であった。

僕らは泣くために生まれたわけじゃないよ 

チェルノブイリには行きたくねぇ 
あの娘とKissをしたいだけ 
こんなにチッポケな惑星の上
「チェルノブイリ」

彼らは、さまざまな矛盾と不幸のあふれた現実社会に対して、何もできない、なしていない自分の弱さと、それでも好きな人と過ごしたい、好きな音楽を聴いていたい、自分たちの素直で等身大の欲望を、くり返し歌った。
あれもしたい これもしたい もっとしたい もっともっとしたい
愛することだけ考えて それでも誰かを傷つける 
そんなあなたが大好きだ そんな友達がほしかった
                      「ながれもの」 
何も持たず、何もなしえていない自分自身の欲望を、それでも肯定し歌いあげたBLUEHEARTSは、だからこそ他人の欲望にも寛容であろうとした。
お互いの欲望を認める優しさ、それを彼らは、「愛」と呼んだ。
生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない 
死んでしまうということは とってもみじめなものだろう 
だから親愛なる人よ そのあいだにほんの少し 
人を愛するってことを しっかりとつかまえるんだ 
「チェインギャング」

それは、安易なラヴソングが使うerosではなく、限りなくagapeに近いものではなかったか。現実では難しい、そんな「人にやさしい」世界を夢見るから、BLUE HEARTSの歌は青く、美しく、また、切ない。


それはまさに、「青春」と呼ばれる刹那がもつ、はかなくも美しい切なさであったろう。

 カンバスの余白八月十五日  神野紗希

 
 ヒヤシンス幸せがどうしても要る  福田若之


THE BLUEHEARTSは当時、「社会派バンド」と呼ばれ、時事的なメッセージ性の強い作風で知られた。しばしば彼らは、Rockでありながら、いやだからこそ、「良識」を歌うことを期待されつつあった。


私がBLUEHEARTSにハマったのは彼らが解散した後だったから当時のことはよくわからない。

しかし、次第に彼らはそうしたレッテルを重荷に感じていたのかもしれない。
どっかの坊主が 親のスネかじりながら 
どっかの坊主が 原発はいらねえってよ 
どうやらそれが 新しいはやりなんだな 
明日はいったい 何がはやるんだろう 


永遠なのか 本当か 時の流れは続くのか 
いつまでたっても変わらない そんなものあるだろうか

かつて「少年の詩」を歌った彼らも、大人になった。

変わらず、「大人」たちを批判しつづける選択肢もあっただろう。

しかし彼らは、鮮やかに、軽やかに変化していった。
彼らはより自由に、ストレートに、Rockを歌い始めたのである。

それは、次のステップ、すなわち、THE BLUEHEARTSからTHE HIGH-LOWSへ変化する、準備段階でもあった。