いつの間にか、ゴールデンウィーク、終わってましたね。
まあ、私は世間様とは若干違う時間軸に生きているので、あまり変化はないのですけれども。
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前回、朝日新聞のアンケート「好きな俳人」ランキングについて紹介した。
その記事に、涼野海音さんがコメントをくださったのだが、なぜかアップされなかったので、許可を得て再録することにする。
こんばんわ。なかなか興味深いランキングですね。種田山頭火と放哉の票差が大きいのは何故とか、四Sの中で私が好きな素十と青畝がランクインしていないのは何故だろうとか色々考えさせられました(笑)。草田男が入ってて、川端茅舎と松本たかしが入っていない、金子兜太が入ってて、飯田龍太・森澄雄が入っていないのも、ちょっと不思議な気がしましたが。やはり一般的な認知度の問題でしょうか。ランク外の作家については「一般的な認知度の問題」以外なにものでもないと思われる。
数ある作家のなかで誰が入らないか、ということはタイミングもあるし難しいところだが、むしろ「俳人」では当たり前にあがる名前を差し置いてランク入りした「作家」の名前のほうに、私としては興味がある。
たとえば、そう、桂信子によって「私たちとは違う」と評された、「黛まどか」さんのような名前である。
もちろん「外」の評価が絶対ということはありえない。
しかし「外」にまで存在感が知られている作家というのは、やはりそれなりの発信力を持っているというべきであり、なにより存在感のある作家の存在はジャンルそのものを活性化させることがある。
近世俳諧の時代にさかのぼらずとも、俳句の沃野は特別な意識も持たない圧倒的多数の俳句愛好家(その多くが作家)によって支えられてきたのである。そしてその多くは革新ではなく伝統を、孤絶ではなく温雅を愛する人々であり、そこに「定型」も「季語」も立脚している、といってよいだろう。俳句が大衆文芸たる所以である。
しかし一方で、近代俳句の表現の革新は、一握りの「存在感のある作家」による「無名作家」たちの意識を革新させてきたから、に他ならなかった。
だから、むしろこうした「一般的な認知度」について、「中の人」がどう感じるのか、ということが問題なのである。その意味で言うと涼野さんが「不思議」と感じる、そのギャップこそ「外」と「中」とを分ける「壁」なのだ。
私が俳句をめぐるシステムに違和感を覚えるのは、この壁なのである。
一方で俳句は無限に大衆に向かって開かれ、あらゆる俳人先生はこぞって「入門書」を著し、俳句雑誌はこぞって「上達テクニック」を特集し、日本各地に誰でも参加可能な投句欄、投句大会が存在している。
にもかかわらず、「外」では、閉鎖的な「俳壇」イメージが蔓延し、「難しいもの」「古めかしいもの」だと思っていて、事実、「中の人」の評価する作家と「外の人」の評価する作家との間にはギャップがある。
要するに、こちらに興味を持ってくれる人だけ迎え入れて、それで細々やっていこうというならばよいのだが、奇妙なことに若手不足とか、俳壇の停滞とか、袋小路とか、そういった嘆きだけは、止むことがないのである。
奇妙、というほかない。
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「外」へ。
近ごろ飛び交いつつあるこのフレーズは、「外」と「中」との境界を乱して、一時のカオスをも覚悟せねばならぬ、カオスをもって活性化させ、カオスをくぐり抜けて次代へつなぐことを目的とする、そういう言葉に他ならない。
俳句を「俗」な「遊び」と心得る、私にとっては、その「カオス」が、なかなかおもしろそうに見えるのだけれども。
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