2012年4月29日日曜日

「外」の話


先日、梅田駅の紀伊國屋書店で、30代半ばといった風のお兄さんが、高柳克弘『未踏』を購入している現場に遭遇してしまった。ほかにもいくつか句集をめくっていたが、最終的に『未踏』を選んでいかれたのである。
ジーパン履きのわりと活動的な格好で、見た目はいわゆる雑読家風でもなかったのだけど、あの人は俳句関係者だったのだろうか。今、『未踏』というあたりが、どうも関係者らしくもなく、らしくもあり。
最近俳句をはじめた人が、句会の先輩に若手の句集なら『未踏』だろうと勧められてどんなものか買いに来た、とか、そんなストーリーを想像しつつ。




昨日(4/28)の朝日新聞別冊beに「好きな俳人」ランキングが掲載されていた。
第1位は松尾芭蕉で、889票、これは「58パーセント」と過半数の数値らしい。
第2位が小林一茶、868票と僅差である。記事には田中亜美さんの、「俳句と言えば芭蕉。これは誰でも思いつくが、一茶への共感は人間も含む生き物が題材だからでしょうか」とのコメントが載っている。
3位に正岡子規、716票。これはドラマ『坂の上の雲』の影響も大きいようで、ドラマでは秋山兄弟との交流に重点があったが、香川照之の鬼気迫る闘病イメージが作家としてのイメージも助けているようだ。
4位与謝蕪村、625票。ここまで得票が多いのだが、5位の高浜虚子は274票と大きく水をあけられている。

以下、6位から20位までが挙がっている。
種田山頭火、256票。黛まどか、142票。中村汀女、118票。金子兜太、79票。水原秋桜子、74票。山口誓子、70票。中村草田男、68票。飯田蛇笏、50票。鈴木真砂女、47票。尾崎放哉、46票。角川春樹、35票。加藤楸邨、32票。西東三鬼、26票。稲畑汀子、25票。杉田久女、22票。


このアンケートの調査方法は以下のようなものだったらしい。
朝日新聞の会員サービス「アスパラクラブ」のウェブサイトで3月にアンケートし、1537人が答えた。朝日俳壇で俳句時評を担当する田中亜美さんの意見を参考に、江戸期以降から現代までの代表的な50人の俳人を編集部が選び、その中から好きな俳人を5人まで選んでもらった。「その他」の項目では夏目漱石や芥川龍之介、寺山修司、渥美清などの名前も挙がった。
ちなみに記者は宇佐美貴子さん。できれば「代表的な50人」の顔ぶれを聞いてみたいところだが、うち20人が公開されているのでおよそ見当がつく。

昨年、「俳句の外」という言い回しが注目されたことがあったけれども、実際に「俳句の外」というと、こういう形でのアンケート調査ということになるかもしれない。
回答者の中で俳句関係者がどの程度いたかはわからないし、朝日新聞会員1537人という数値が統計学的にどの程度普遍化できるのかもよくわからないが、少なくとも俳句総合誌が行うアンケートよりは、「外」の認識を示しているといえるだろう。
そこで考えてみると、まぁ上位5人は妥当。俳句関係者で同様のアンケートを行っても、虚子の得票、ランキングがもっと上がるだろうが、いずれ上位には入るだろう。一茶、蕪村はすこしランキングを落とすかも知れない。
しかし俳句関係者で同様のアンケートを行ったら、5位以内に入ってもおかしくないのが、山口誓子、金子兜太だろう。逆にランク外の可能性が高いのは黛まどか、角川春樹のお二人。
特に黛まどかは7位と、現存俳人のなかでは最高位である。
CMで流れた俳句が印象的だった」(岐阜、38歳女性)という声も寄せられており、私は知らなかったが、結構いろんなCMに採用されているらしい。やはり「俳句を広げる」という意味においては黛氏の活動は馬鹿にならないものがある。




御中虫『関揺れる』と、関悦史『60億本~』が、結構な評判らしい。
なかでも松岡正剛氏によってウェブ上の書評集
『千夜千冊』でとりあげられ、紹介写真で関氏、虫氏の提供した写真が多数掲載されたのは、結構な壮観であった。
松岡氏は俳句にも親しんでいた時期があるそうだが、ざっとバックナンバーを確認したかぎり句集の紹介は少ないようで、芭蕉、蕪村、一茶の三俳人のほか、近代以降では
石田波郷くらいで、あとは加藤郁乎永田耕衣の著作が紹介されている。
ちなみに個人的に関悦史氏の雑読ぶりは、荒俣宏、松岡正剛氏と同種のものを感じ、その意味でも松岡・関の組み合わせに興趣を感じたのだが、どうであろうか。

ところで坪内稔典氏は、『関揺れる』について次のように批判している。
 ところで、詩人の城戸朱理が毎日新聞の詩の時評で御中虫の句を取り上げている(4月19日)。「春麗洗濯物と関揺れる」「関揺れる人のかたちを崩さずに」「揺れるなら止めてみせよう関悦史」という句。城戸はこれらの句を評して「ありうべき震災詩のひとつのあり方を示しているように思う」と述べている。もちろん、肯定的に評しているのだが、上の3句、私の読みでは取るに足らない。俳句の表現として新しいものや魅力がない。要するに駄句。

坪内氏が城戸氏の書評から孫引きしているのは、城戸氏による評をふくめて批判の対象としているからであろう。(たんに面倒だったのかもしれないが)先日記したとおり、私自身は御中虫氏のウェブ上における震災詠のこころみとしての「関揺れる」については、面白く拝読した。
ただし、これも書いたとおり句集は購入しなかった。ツイッター上の、いわゆる「祭」としてのおもしろさと、句集として「鑑賞」するおもしろさとは、おのずから別であるからだ。句集として見たとき、「関揺れる」掲載句は、やはり完成度は高くないと思う。それは第一句集『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』と比べても歴然である。

しかし、一方でこうした「祭」的な言葉の勢いが、句集の形態としても松岡氏のような「外」に伝わったのだとすれば、それはそれとして注目していい事態かもしれない。一句ずつの完成度とは別に、言葉のもつ力が人に伝わる、ということは、ありうるからだ。

ちなみに城戸氏のあげる3句は、私もあまりいい句とは思えない。ブログ掲載の「関揺れる」で私が面白いとおもったのは以下のような句。どうも改めて見ると今回は非定型に収穫が少ないように思われる。
 関揺れる人のかたちを崩さずに
 「この季語は動きませんね」関揺れる 
 政治的意図はないけど関揺れる
 震源は?小首かしげて関揺れる
 関はいつも一人で揺れてゐた、いつも。


※ 5/31追記。  ・・・あ、「関揺れる人のかたちを崩さずに」は城戸氏があげた句と一緒だった。失礼。これはおもしろいと思います。
 
 

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