2012年4月4日水曜日

時評について


こんにちは。サボるつもりもないのですが、また期間があいてしまいました。
週1更新、月4~5回ペース、と思っているのですが、3月は3回しか更新できてませんね。面目ないです。



先日、北のほうへ行ったついでに東京へ立ち寄ってきました。
そのときにも話題になりましたが、八田木枯さんの訃報。最近ネットを通じて面白い作家だと知ったところだったので、やはり残念。

木枯さんについては週刊俳句、また「きりんのへや」でご参照いただくとして、私が興味を持ったのは、関悦史さんの時評であった。

週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評61〕なぜ句集なのか ――現代俳句協会青年部勉強会 「シンポシオンⅤ 句集のゆくえ」の後で 関悦史


これは直接には現代俳句協会青年部の勉強会、「句集のゆくえ」からスタートしている。
関さんは周知のとおり『六十億本の回転する曲がった棒』(邑書林)を上梓されたわけだが、そもそもなぜ「句集」という形態が必要だったのだろうか。
ネット媒体に親しい関さんあれば、当然、紙媒体以外にも作品発表の選択肢は多かったはずだし、そもそも関悦史という作家の個性を考えると、「句集」という形で後世に遺ることを至上としているようにも思えず、「俳壇」的評価を気にするお人柄でもなかろう。そんな関さんが句集をどう思っているか、というのは、たしかに興味深い点ではあったのだ。
関さんは結局、「句集」という形態は読者の読みたい欲求と作者とを結ぶ「交流」の手段だ、という。そしてそこから最近接した作家の訃報を通じて、

句集を編む際には、それを届け、読ませたい誰彼の名が、数百人以内の規模で現われる。現在、俳句が「座の文学」であるということの潜在力は、句会よりもむしろ(遺)句集編纂という局面でその真価を発揮するともいえるだろう。
と論じる。
ところで、関さんの時評がおもしろいのは、この続き。
ここから外山一機さんが『鬣』に発表したという文章に接続し、インターネットでの送受信が容易になってしまったことでかえっておこる「奇妙なループ」、つまり、「ネット上での活動はしばしば不特定多数よりは特定のコミュニティ内の誰かに向けて発されてしまう」という、外向的に見えてその実内向的な奇妙さ、に警鐘を鳴らすのである。

ネットを通じた交流の広がりが、実は小さな島宇宙を形成していくだけだ、というのは、SNSやツイッターのようなコミュニケーションツールを論じる際に言い古されているが、「句集」の問題から、ネットツール問題にまで言及できるのは、やはり関さんならではと言うべきだろう。



こんなことを考えたのは、実は『俳壇』4月号誌上の「時評」の、あまりのていたらくに驚いたためである。

増成栗人氏の文章で、話題は俳壇の高年齢化について。
まず小中学生への俳句教育から書き起こし、しかしその上の世代である二十代、三十代の割合が5パーセントを超える結社はほとんどないだろう、と言って結局明日を作るのは若者なのだから「若人」たちよ恐れずに一歩を踏み出せ、と結んでおられるのだが、驚くべきことに、そう、まったく私には信じられないことなのであるが、文中、俳句甲子園にも、芝不器男新人賞にも、『新撰21』にも、それどころか、高柳克弘、神野紗希といった名前すら、ただの一回も言及がなく、唯一登場する作家の名前が、なんと黛まどか氏『B面の夏』なのだ。
(黛まどか氏については外山氏の俳句時評のほうがよほど読むに値する。増成氏が俵万智氏と黛氏を単純にならべて短詩型ブームがおこったように書いているのに対し、外山氏はきちんと年次をあげ、最後に松本恭子氏にも言及している)

増成氏が言及するのは、各結社が小中学生相手にジュニア俳句を指導している努力、であって(おそらくご自分の結社でされているのだろう)、二十代三十代はもう一人も育っていないような口吻であり、そのうえで「若人」たちへ、夢と責任をもて、と、おっしゃるのである。
当たり前だが、いち結社のなかで若手が何パーセントだろうと、それは結社内部で解決すべきことであり、総合誌上の公論としては、「俳壇」全体の何パーセントが何歳代であるか、ということを話題にすべきなのだ。
仮に、増成氏が、今の若手に黛氏のように論評に値する実力者ないしカリスマ的な存在がいないというのであれば、そのように書くべきであろう。
現在の「若手」を一切無視して説諭されても、「若手」としても聞く耳の持ちようがない。

「新撰」シリーズによって「若手」ブーム、ともてはやされているようでありながら、そのブームが「新撰」以外の若手におよぶどころか、ブームすら無視した議論が、総合誌上に「時評」として掲載されているという、その格差は絶望的である。
結局、「新撰」シリーズですら、話題になっているのは「週刊俳句」界隈、という、新たに作られた狭いコミュニティのなかだけ、ということなのだろうか。



かつてこの場で、私の期待する「時評」について書いた。
曾呂利亭雑記: 若手評論家見取り図、時評篇

「時評」とは、時機に応じた批評、評論、であり、一個の完結した論考である必要はない。しかし、ときどきにおける問題提起がなければ「時評」ではない、と思う。
要するに、インプットとアウトプット。
読者の知らない情報をインプットする情報収拾力と、その情報を読者にとって身近な問題、公論のために必要だととわからせるアウトプット、問題提起の力が必要なのだ。

もっと言うなら、小さなコミュニティのなかだけで消費されがちな問題を、隣のコミュニティにもわかりやすく提示してくれる、「道しるべ」であってほしい、ということなのだ。
その意味で私は、自分の参加できなかった研究会の内容や、知らなかった最近の句集、評論の話題から問題を提起してくれる、関さんの時評にたいへん刺激をうける。
あるいは川柳世界の案内人として、毎週力のこもった鋭い問題提起を発信し続けている小池正博さんの時評を愛読する。
あるいは、ときにジャーナリスティックにすぎる高山れおな氏の文章や、幅広い目配り(気遣い)と一貫した問題意識をもつ高柳克弘氏に対して、論旨とは別に深い共感を覚えるのである。

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