読む、ということについて考えている。
先輩から聞いた話なので出典がわからないのだが、國學院大学教授であった国文学者・折口信夫(釈超空)にこんな逸話があるらしい。
戦後、教育界も民主化の流れを受けて、講義の内容について学生側の要望を聞くということが行われたらしい。その年、学生たちは折口に『徒然草』の講読を要請した、のだそうだが、折口は無視して芭蕉七部集の評釈を行った、というのである。
細かい書名などは違うかもしれないが、これはどうも折口が変わり者だったとかいうだけでなく、散文は読めばわかる、韻文こそ評釈に値する、ということだったらしい。
逸話の当否はともかく、韻文を「読む」ためにはある程度の訓練ないし能力が要求される。
俳句に限って言うと、もっとも素直に俳句を「読む」環境は「句会」という場である。
というと嘘になる。なぜなら「句会」という場に集う人々は、基本的に、意識して俳句をやりにきているので、実はすでに「俳句」の「読み」のルールに、ある程度は乗っている人たちだと考えられるからだ。
ルールに乗って読む力、これが「俳句リテラシー」である。命名は外山一機氏による。
この「俳句リテラシー」を、どの程度まで求めるか。
坪内稔典氏は、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」を、俳句知識を持たなくても暗唱できる「名句」であるとしており、「リテラシー」以前の口誦性などを重視しているが、「名句」の成立は教育など外的環境要因も大きいように思われるため評価が難しい。
「俳句リテラシー」を逸脱しかねない自由な「読み」は、しばしば型にはまった句の新しい魅力を掘り出すことが出来、その逸脱力こそ「句会の魅力」といえる。
ところが、句会において逸脱した「読み」は、たいてい「俳句をよりよく読める先輩」によって是正されてしまったりする。
これは善悪両面あって、既存の価値観に押し込められてしまうという面と、歴史的・日本語文脈的に確実な誤読を防ぐという面とを持っている。実際、季語も切れも無視した読解が句会で披露された場合、残念ながらそれは読みうる可能性の域にとどまり、コンセンサスを得ることは難しいであろう。
これにより、自由闊達な「読み」は、一定の方向性と深度をもった「鑑賞」へと移っていく、と考えられる。
玉虫色の解答を目指すなら、一句の「読み」とは、リテラシーに則った正攻法の「鑑賞」を示しつつ、リテラシーを無視した自由な「読み」の幅を許容することが重要なのだ。
「読み」の幅の大きさによって、一句の魅力はときに誤読であっても時代を超え空間を超え、読者の心を打つことがある。
塚本邦雄『百句燦燦』は、往々にして深読みに過ぎる独特の鑑賞文であるが、しかし誤読をも恐れない「読み」の推進力にあおられて、一句の輝きが増すのである。
『源氏物語』を恋愛小説と読むのは、研究上は誤りであり、当時の作者や読者が我々と同じ「恋愛」観を有していたわけなどないのだが、時代ごとに即した読みが行われることによって、作品は生き続けるのである。
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私は古典文学を専攻していることもあって、「批評」と「研究」との差異に悩む、ということはあまりない。
「研究」というのは、私の理解では、客観的な資料、素材にもとづいて、作品の内容や背景など読解に当たって有益な新知見を明らかにすること、である。
古典作品を読む上では、文法や歴史的背景など読解にあたって押さえておくべき事象が多く、おのずから「研究」的手法をとらざるをえないからである。古典読解において「研究」的手法をおろそかにした「批評」には意味がないし、「研究」的手法をふまえた「批評」は、まぁ「研究」と呼んで差し支えない。
その点、近現代文学専攻の人とは「批評」に対するイメージが違うと思う。
いまこころみに「批評」を、簡単にネット辞書で引いてみると、
物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。などとある。
[用法] 批評・批判――「映画の批評(批判)をする」のように、事物の価値を判断し論じることでは、両語とも用いられる。◇「批評」は良い点も悪い点も同じように指摘し、客観的に論じること。http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/15630200/
つまり「批評」は基本的に論者の「評価を述べる」ためのものであり、作品の内容に即した「鑑賞」よりも、さらに一歩踏み込んだ行為なのである。
もともと「文芸批評」の提唱者は、従来の「文学研究」が、作家の伝記的事実(どこで誰と会ったとかどこへ行ったとか)にこだわるあまりストーカーのようになってしまったり、草稿の一字一字の書き直しに注意するあまり小説全体を読んでいないような論文があることを批判して、作品をどう読むか、どう評価するか、ということを重視しようと言い出したものらしい。
考えてみると俳句の「選」というものは、「選は創作なり」という言葉もあるが、ただ読むだけでなく作品内部に分け入って評価し、ときに添削まで加えてしまうというものである。つまり、一句一句について「精読」する必要があり、その意味で「批評」である。
といっても、先ほど述べたとおり「批評」がいくら自由に作品に迫っていこうとしても歴史的背景や文法を無視して論評されてしまうと、それは一個人の「読み」にしか過ぎなくなってしまう。その批評が当を得ているかどうか、は、その批評がどこまで客観的な素材にもとづいて議論しているか、にかかっており、その点、「研究」とは目指すところは違っても手続きは似ている。
(続く・・・?)
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