先日ふれた「共同研究 現代俳句50年」を読みふけっていたら、いつまでたっても更新できなくなってしまいそうなので、今日はすこし川柳の話を。
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川柳の概略史については案外、WIkipediaでわかりやすくまとめられており、そこそこの造詣のある人間が執筆しているようである。
Wikipedia「川柳」
しかし、同じくWIkipediaで「川柳家一覧」を見てみると、「六大家」とされる岸本水府、麻生路郎、川上三太郎、前田雀郎、村田周魚、椙元紋太の六人でさえ、充分に記述されていないことがわかる。
柳人のプロフィールを調べる場合、まとまったものとしては「MANO 川柳人名鑑」が簡便だが、ほかは一人ずつ検索をかけて調べるしかない。
紙媒体では尾藤三柳編『川柳総合大事典』(雄山閣出版、1984)、田辺麦彦編『三省堂現代川柳鑑賞事典』(三省堂、2004)などが大部のものである。
しかし、繰り返し指摘されているように簡便なアンソロジーが皆無の状況であることは川柳界にとっては大きなハンデである。せめて「六大家」くらい、まとめて読める一冊があってもよろしかろうと思う
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以前、西原天気さん(現・さいばら天気)が「週刊俳句」で次のようなことを書いていた。
ところで、難解な川柳ということで、私自身、ずいぶん前から強く抱いている思いというか疑問がある。難解な句と「誰にもわかる」句のあいだの溝は、俳句にもある。しかし、俳句の場合、その両極は、溝があるとはいえ、まだ地続きのようにも思える。いわゆる前衛的な作風(関は九堂夜想を例として挙げている)の句群と、例えば「おーいお茶」俳句とは、細い線ではあっても、まだ繋がりを見出せるように思うのだ。溝はあっても、決定的に断絶しているわけではない。ところが、川柳の場合、この「バックストローク」誌に掲載された川柳と、例えばサラリーマン川柳とのあいだには、俳句の場合よりもはるかに深くて広い溝があるように思える。
西原さんが現在でも同様の感想を持っておられるかどうかは知らないけれども、たとえば『川柳全集5 川上三太郎』(構造社出版、1980)などを読むと別の感想が生まれるのではないか。
善政の国史に無駄な文字が無し 三太郎
これ程の腹立ちを母丸く寝る
蟇(ひきがえる)汝元来懶者(なまけもの)
男の子口を結んでから強し
も一つの自叙伝闇に指で書く
これでこの友を失う金を貸し
天皇は猫背に在す雨の中
すとらいきなんじしんみんあるくべし
孤独地蔵お玉じやくしが梵字書く
河童起ちあがると青い雫する
人間に似てくるを哭く老河童
鴉ひよこりひよつこり寒いなあ日本海
三太郎の台詞としてよく知られたものに、「どこまでが俳句か、俳句のほうで決めてくれ。それ以外は全部川柳でもらおう」というものがある。
その宣言どおり、三太郎は皮肉な時事川柳から、いわゆる「詩性川柳」の連作、ほっこりする人情句まで幅広く詠んでいて、ときに「二頭主義」との批判もされたという。
(参考.http://web11.jp/akuru/mano-koike4.html)
むろん、一句における緊張感や語の選択は、「サラリーマン川柳」の気楽さとは大きな開きがある。しかし、三太郎という地平から眺めると、両端の「溝」はそれほど深くもないのではないか? とも思われる。
むしろ、「川柳」の根っこは、諷刺や機知、情緒や風情といった水脈を通じてやっぱり「狂句」とつながっており、その先の「サラ川」とも地続きで、しかもそれでいて、「難解」へも「詩性」へも、振り切れるだけの飛翔力を秘めているのが「川柳」なのだ。
「現代川柳」は「飛翔力」に特化し、ことさらストイックな仮面をまとおうとしているように見える。
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実際のところ、たとえ狂句であっても、「誰でも詠める」狂句に意味がないのは、一般文芸と同じではないだろうか。機知や諷刺であっても、やはり「作品」ならば、日常語彙からはすこし逸脱した、なにかがほしい。
次のような句が、「怒りの川柳」と称して「大賞」を受賞するようならば、どう足掻いても「川柳」どころか「文芸」の萌芽は生まれない。
想定外そんな言葉ですまされぬ*
(再び――言う!)川柳は 誰にでも出来る
だから 誰にでも出来る川柳は 書いても無駄であり 書いてはならぬ
川上三太郎「単語(抄)」『川柳全集5 川上三太郎』
こんにちわ。「季語きらり100」買いました。個性的な文章と俳句のコラボレーションを楽しめる歳時記ですね。
返信削除久留島さんの句「大文字大といふよりKですな」、うならされました(笑)
大文字見た事ありませんが、「ほんたうにKに見えるや大文字 海音」ということで(笑)
>海音さま
返信削除「季語きらり」お買いあげありがとうございます・・・私には一銭も入りませんが(^^;。
歳時記と言うよりエッセイ集ですが、楽しんでいただければ幸いです。
大文字は、本当に「K」です(笑)。あの句は「ですな」のあたりが作為ぽくて、作者としてはそれほど好きな句ではないのですが、共感していただける方が多いようで、ありがたい句です。