ひとまず問題を「俳句」に限定した場合でも、その基準は無数であり、容易に決することが出来ない。
それぞれの結社の主宰であろうか?
あるいは、『俳句』に代表される総合誌、または「賞」を決める審査員だろうか?
あるいは作家の集合体であるところの「俳壇」、または「○○協会」などの集団だろうか?
キャリア数十年の大先生が選んでくれた句は「よい句」で、
俳句を知らない女子大生が選んだ句は「駄句」なのだろうか?
それとも、自分が「よい」と思えない句は、どんなに熱心なファンがいたとしても「失敗」に過ぎないのだろうか?
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ああ、そういえば最近、飯田龍太の句を使った妙な評論が「週刊俳句」に載りましたね。
・A句は名句といわれている。本当か?(通説・問題提起)
・名句は○○という条件を備えている。(仮説)
・A句は○○ではない。したがってAは名句ではない。(結論)
(反証)A句が一般的に「名句」と言われているのなら、「名句」の条件と提示された「○○」が一般的な条件に合致していないのではないか?
検証不可能な定義を持ち出して、定義にはまらないからはじく、というのは、たとえば桑原武夫「第二芸術論」もやった手法であるが、粗雑で見ていられない。
「(第一)芸術」だとか「名句」とか「傑作」とか、定義できないものを定義しようとする人は、たいてい信頼できない。
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昨年末「俳句Gathering」で行ったシンポジウムで、パネリストの小池康生さんが次のような興味深い発言をしておられた。
俳句は、作句と、評と、選の三本柱。
俳句をはじめてまず上手くなるのは、「評」。なぜ自分が採ったか、採らなかったか、誰でも慣れてくれば、ある程度は上手くしゃべれるようになる。
「評」ができるようになると「作句」が上手くなってくる。 「選」は最後。「選」が上手くなるのは、やはり時間が必要だ。
「評」が一句ごとの好き嫌い、相対的な判断力だとしたら、「選」は、まとまった句から選抜する力、絶対的基準、と言い換えることが出来るだろうか。
「選」を師匠にゆだねる、という行為は、つまり自分の中での基準をそっくりゆだねてしまうわけで、自分が好きだろうが嫌いであろうが師匠の価値基準が正しいと思う、違っていれば正しい方向へ自分を是正していく。
基本的には、そういう在り方なのだろう。
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高柳克弘さんが確か、「結社は読む技術を育てる場」と発言していたと記憶する。(備忘録・現代詩手帖)
また別の場所では「俳句を学ぶ上では、自分を強制的に否定する主宰が必要」とも言っている。(愛媛新聞ONLINE 出身俳人の挑戦(4))
師と弟子、俳句における結社、といった問題については仁平勝氏の評論「おとなの文学」なども想起する。
私なりに換言すると、「俳句リテラシー」が未熟なうちは、理解できなくても師の教えを学び、俳句リテラシーを身につけろ、と。そういうことか。
私は、一人の主宰の価値基準を信頼する「結社」に入った経験がない。
それはやはり自分の価値基準を上回る「師」という存在に、耐えられないと思うからに他ならない。
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結社の話は、長くなるのでやめておく。
ここで私が問いたいのは、「誰かが、自分とは違う価値基準で句を評価したとき、それを否定する根拠を、あなたは持っているのですか」 ということなのだ。
それが誰であれ、一人の読者が「Aの句はいい」と言ったとき、それは、少なくともそれだけの価値があるはずだ。
私には「Bの句のほうがもっといい」と言うことはできたとしても、A句を完全に否定する根拠はない。たとえ「趣味悪いな、性格合わなそうだな」と思っても、「えー全然読めてない!」と思ったとしても、A句が一人の読者に届いた、その事実は尊重すべきものだ。
人と自分は、違う。
だからこそ、異なる価値基準の評価を聞く、ということが、ひとつに固定されない、自分が思っても見なかった側面が評価されているのを楽しむ、ということが、互選句会の楽しみ、俳句の楽しみなのではなかったか。
そんな単純なことを忘れて、一句の評価を絶対的に定めようと言い合ったとしても、所詮、水掛け論で不毛なだけだろうな。
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