バリケードは仮設空間だった。/みんなで垂直に飛び上がって、時間を止めた。いったん自分たちの未来を消し、どう生きるかを考えた。着地した後、個人に戻って、それぞれの道を歩んだ。僕もその一人。
猪瀬直樹の発言「ニッポン人脈記 反逆の時を生きて⑪」2009.07.07朝日新聞夕刊
『俳句』7月号は団塊の世代特集。
へぇ、と思ったら企画は橋本榮治氏で、例の「俳句の未来予想図」での討議に啓発されてのことだそうだ。随分、お仕事が早い。
橋本榮治氏は企画の総論で次のように発言している。
へぇ、と思ったら企画は橋本榮治氏で、例の「俳句の未来予想図」での討議に啓発されてのことだそうだ。随分、お仕事が早い。
橋本榮治氏は企画の総論で次のように発言している。
若い人たちは選択肢の多様化を求めているのだが、それにこの世代は応えられるかということだ。かつて大学紛争の結果、多様化の道を閉ざされ、各人が自己へ関心を向けざるを得ない道を選んだ(ある者は選ばされた)世代だからである。座談会で「団塊の世代について一言、言っておきますと、みんな結構、個人主義ですよ」との拙言はそのことを含んでいる。
折も折、朝日新聞夕刊の連載、「ニッポン人脈記」で「反逆の時を生きて」という、全共闘を取材したシリーズが始まった。「大逆事件残照」に続き、全共闘世代への郷愁あふれるタイトルはさすが朝日、という気もするが、それはさておき、冒頭に挙げた猪瀬氏の発言と、橋本氏の発言はとてもよく似ている。「団塊の世代」の自己評価なのだろう。
*
世代論、嫌いではない。そのためもあって、「同年代」とくくられる俳句作家の動きには、敏感でありたいと思っている。
1980年生まれの高柳克弘氏の第一句集『未踏』(ふらんす堂、2009年)を拝読。
白地の表紙に黒い影が一閃。流星なのか、鷹の翼なのか。ふらんす堂渾身の「天黒」、ひらいた標題紙のすかし、など。装丁、素敵です。
小川軽舟氏の丁寧な序文を読みながら、「すぐれた青春俳句」「和歌的なたおやかさ」とのキーワードを得る。これらはおおむね、いままで目にした作品から受けた印象と合致するもの。たとえば、第十九回俳句研究賞を受賞したときの、
つまみたる夏蝶トランプの厚さ
秋深し手品了りて紐は紐
うみどりのみなましろなる帰省かな
といった代表句の印象を裏切らない。
寺山修司や三島由紀夫ならざる、現代を生きる、しかも自分と5歳も変わらない高柳克弘氏の詠と思うとこそばゆくなるが、それでもこれらはたまらなく佳い句だ。
受賞作品はほぼⅡ章に収められているが、掲載順も変わっており、またいくつかは除かれた句もあるようだ。(<大都会しやぼん玉吹くわれがゐる><毛のつきし獣の骨やさくら散る>など、結構印象的な句が見あたらなかった)(すみません、見落としていたらご教示下さい)
さて、読み進めていくうちにいろいろ面白い特徴があることに気づいた。すでに評判の句集であり(下記参照)、贅言を尽くすことになるが、ご容赦いただきたい。
まず、素材の偏向である。
よく指摘されるのは「蝶」や「羽」へのこだわり。
高山れおな氏によれば「蝶」の句は全三五七句中、二一句を数えるという。そのほかにも「劇」「本」などくりかえし詠まれる素材が多い。(以下、ローマ数字は章番号)
蝶の昼読み了へし本死にたり Ⅱ
学生は学生の劇見て聖夜 Ⅱ
本まぶし蟻より小さき字をならべ Ⅲ
十人とをらぬ劇団焚火せり Ⅳ
道をしへ鞄に本のぎつしりと Ⅴ
おそらく作者の日常、嗜好を反映しているのだろう。「劇」に「踊り」「パントマイム」などを加えればさらに増える。
一方、「食」に関する句は、目立って少ない。「桃」「林檎」など果物は散見されるが、ほかに直接食べ物を詠んだ句はほとんど見あたらないようだ。これも言ってみれば「和歌的」だと言えるかもしれず、また坪内稔典氏ならば「俳句の雅化」と批判するかもしれない。
それにしても図書館の親しい利用者らしい作者の、
図書館の知識のにほひ夜の秋 Ⅵ
はちょっとひどい。役人の作った図書館教育のキャッチフレーズのようで、あんまりだ。
小西甚一氏によれば、「雅」とは永遠の美、完璧な美を志向する芸術姿勢である。『未踏』には、圧倒的な永遠 ―過去、未来を問わず― への畏敬、傾倒が顕著である。
ことごとく未踏なりけり冬の星 Ⅰ
読みきれぬ古人のうたや雪解川 Ⅳ
もののふの遺墨なりけり冬の海 Ⅴ
前掲<秋深し>、<蝶の昼>のように、「了」った世界も作者が親しむ世界である。
やはらかくなりて噴水了りけり Ⅰ
噴水の了りし水の暮色かな Ⅰ
そのほか、頻出するドガやランボオなどの人名。神話、文学作品の主人公たち、イカロス、キューピー、厨子王、アリス。過去を生きた先人たちへの真摯な畏敬は、すなわち彼らの「了」ったあとを生きているという強い自覚と表裏をなしている。
地に落ちてしづかなる羽根日の盛 Ⅲ
泉飲む馬や塚本邦雄死す Ⅲ
<泉飲む>はもちろん塚本の<馬を洗はば>、<地に落ちて>は、おそらく富沢赤黄男の句を踏まえたものだろう。
作者の知識は広く、それゆえに知識の蓄積に囚われてしまっているように見える。
そんな作者の「青春詠」は、やわらかく、可憐で、しかし、、、どこか、作り物めいている。
薫り高い「雅」な世界も、嫌いではない。しかしそればかりでは飽きてしまう。同じ神話的な内容を詠んでいても、違うのは次のような句。
大陸を沈めし海や春の鷹 Ⅵ
亡びゆくあかるさを蟹走りけり Ⅵ
ともに最終章から引いた。これらの句に見える明るさは、第一章で<未踏>の永遠にうちひしがれていた青年とは、同じ素材を扱っていても少し違う。
キッチンにもんしろてふが落ちてゐる Ⅵ
六月や蝋人形のスターリン Ⅵ
前掲の<図書館>のような句も含めて、素材や手法の拡充が試みられている。たとえば次のような、作者の生きた日常を感じさせる句もあらわれる。
大暑なり高田馬場のラーメン屋 Ⅵ
梟や生きゐて嵩む電気代 Ⅵ
すでに作者は「和語的なたおやかさ」にも「雅」な「青春俳句」にも回収されない、新しい俳句に挑んでいる。その「克己の営み」(あとがき)は、次にどう結実するだろうか。
結局、諸批評子と同じ結論に流れ着いてしまったらしい。
『未踏』は、その編年体の章立ても含めて、作者の表現史をかいま見せる句集であり、また「未踏の彼方」、第二句集を期待させる句集である。 最後に、すでに世評が高く本文で触れれきれなかった個人的に好きな句を挙げて、本稿を終えたい。
一番星いちばん先に凍の中 Ⅰ
まだ見えぬ家路や枇杷の花 Ⅱ
秋冷や猫のあくびに牙さやか Ⅳ
文旦が家族のだれからも見ゆる Ⅳ
まつしろに花のごとくに蛆湧ける Ⅴ
祖の骨出るわでるわと野老掘 Ⅵ
入れかはり立ちかはり蠅たかりけり Ⅵ
冬あをぞら花壇を荒らさないでください Ⅵ
※『未踏』の批評は『週刊俳句』新刊俳句評判録でまとめられています。
→
拙著「未踏」、丁寧に批評していただきありがとうございます。一冊の中に「表現史」を見てくださったこと、特に嬉しく。
返信削除9月の「船団」の会にはいらっしゃいますか。
ぜひまた、俳句について語りたいですね。
まずは、お礼まで。
>takayanagiさん
返信削除わざわざのおいで、ありがとうございます♪
誤読や曲解はご容赦下さい。一冊の句集のなかでいろいろ毛色の違う句に出会えるということは、不精でケチな僕にとっては何よりの喜びです。楽しませていただきました、ありがとうございます。
九月の「船団の集い」でお会いできますこと、楽しみにしております。よろしくお願いします。