2009年7月28日火曜日
真銅正宏『小説の方法』を読む Vol.01
真銅正宏氏『小説の方法 ポストモダン文学講義』(萌書房、2007)を読んでいる。
全体を貫く問いは、「読書とはなにか」ということである。
全体は大きく、序章「小説を読むこと」、第一部「小説を読む楽しみ」、第二部「小説を書く楽しみ」、終章「文学にできること」に分けられる。
参考文献やあとがきを見ればわかるが、文学研究の第一線で活躍する著者が、最新の成果を踏まえた上で真摯に「読書とは何か」「文学とは何か」を問うた本で、現代文学理論の入門書としては恰好のものだ。
しかし私は残念ながら、本書の要点を的確に整理して、且つ自分自身が向き合っている「俳句」という特殊なジャンルへ即座に転用するというような、そんな器用さは持っていない。そもそも実のところ、私がこの本を読むのは二度目であり、一昨年に図書館で読んだだけでは理解しきれなかったことを、今回改めて見つめ直そうと試みた次第である。
本稿はまず、私個人の問題関心から真銅氏の著作を任意に(恣意的に)抜粋し、今、私自身が抱えている問題を明かとし、また理論研究によればどのように語りうるのかを確認したい。
先日も記したとおり、本ブログは私個人の問題関心をまとめることを第一の目的としており、ただその問題についてできるだけ普遍的な解消を模索することで、閲覧してくださっている方々の、まぁ補助資料程度の役に立てばいいと思っている。
以下、すべて真銅氏前掲書の引用、()に頁数を記す。
第一部「我々はなぜ小説を読むのか」
まず、テクスト概念の整理から始めたい。テクストとは、編み目、すなわち、おそらく作者によって書き付けられた……一見実態物に見える文字の羅列と、……これを現実化する読者の読書行為とがぶつかる現場において、一瞬立ち上がる、一時的な意味の総体のことである。(P.26)
要するに、テクストの考え方は、小説を、実体物ではなく、意味の関係性によって一瞬構築されたものとして捉えるわけである。(P.27)
同じ読書という行為においても、そのテクストへの関わり方には、深度のさまざまの段階が想定される。受動的にただストーリーを受け入れるだけの、いわゆる娯楽としての消費活動としての読みから、そこに書かれたものを分析し、研究論文や批評、……さらなる生産行為に繋げる、実に能動的な読み方まで、我々の読書行為にはさまざまな性格の違いが想定可能である。(P.42)
このような、実に能動的で精密な読書行為を、今、一般的な読書と区別することにしよう。それが、ニュー・クリティシズムの批評家たちが広めた、精読という名の読み方である。 (P.42)
精読とは、いかにも新語らしい日本語である。……そもそもは、あるテクストの中から、できるだけそのテクストの意味するものを綿密に、正確に引き出そうとする読み方をいう言葉であった。ただし、それは、テクスト第一主義、テクスト中心主義とでも言うべき状況を招来する危険性を持つ。……そこには、テクストの本来の意味合い、すなわち、さまざまな要素が組み合わさって、そこに一瞬姿を立ち上げるという、非物質的な像との矛盾が感じられる。そこに全てがあるという、そこ(原文傍点)、を想定することは、テクストがあたかも物質性を持つかのように受け取ることとなる。(P.44~45)
素朴に何かを受け取ることができるならば、小説もまた、受動的読書によって受容できると言える。しかし、多くの場合それは、ストーリーを読み取ったという次元にとどまり、そこに張り巡らされた計算については、無知または無頓着である場合が多い。……要するに、歌舞伎や江戸時代というものに遅れてきた現代にあっては、……その作品の同時代の状況などを知ることによって、ようやく新たな楽しみを見出すこともできるのである。(P.6)
我々の読書行為は、この表層的なテクストの読解と、その周辺に広がるコンテクストの理解という二つの要素で成り立っている。……我々の読書とは、実はテクストではなく、コンテクストを読む行為なのである。……文学というジャンルを正確に把握するためには、我々は、実は書かれていることだけを読むだけでは不十分なのである。むしろ、書かれていることより、読まなければならない大切なものがある。それが、コンテクストである。(P.8)
この議論、すなわち、作品を読む際、作品外の知識や背景が、その理解にどの程度関わるのかは、あるテクストを構成する要素に、作品外要素がどの程度影響を及ぼすのか、という問題でもある。読者は一般的に、その知識量によってテクストの空白を補うわけであるので、作品外要素はいずれにしても一旦は認めることになろうが、そのような一見作品外要素と見えるものも、実はテクストに内包されている、という発想も可能……(P.44)
我々の精読とは、従来そのようにふるまってきたような、テクスト自体の意味の忠実な再現というような行為ではなく、むしろ、再現や注釈に見せかけた、書かれていないものの創出、ないし虚構行為なのではないか。我々読者は、精読するふりをして、創作にいそしんでいるのではないか。(P.25)
我々はなぜ小説を読むのか。そもそもそれは、決して娯楽の一環としてではなかった。……小説を読むとは、実は想像し、創造するという言葉の言い換えなのである。(P.25)
テクストとは多義的で、実に不透明で不確定なものである。だからこそ、読者の関与が可能であり、そこに一時的に社会的な意味が生じる。しかしそれが提示するのはテクスト本来の意味ではない。テクストとは先にも述べたとおり、そもそも関係性自体の謂いだからである。本来の意味などない。つまり、社会性が、意味を産出するのである。……にもかかわらず、テクストの社会性、作者と読者との間にある社会性について、これまで十分な議論がなされてきたとは思えないし、……中心的な課題を形成したことはないのではなかろうか。(P.31)
たとえ私小説であろうと、作者はそれを小説として発表する以上、そこに、造型という虚構行為を行わねばなるまい。そのような、小説を社会性の自覚のもとテクスト伝達の図式に乗せるのが作者という存在であるべきではなかろうか。そしてそのことを前提として、作者を絶対者として理解せず、テクストの送り手として、機能的に理解し、その機能の総体としての作者の意図を読み、テクストをそこに立ち上げようとするのが、ここにいう読者という存在なのである。作者と読者とは、協同してテクスト生成に関わるのである。(P.41)
テクストを顕在化するのは読者であり、読者がテクストを最終的に生成すると言っても過言ではないのである。しかしながら、読者は特定の個人を指すことはなく、常に不特定多数として、テクストに関わることになる。そのような考え方において、その読者像は、どのように把握できるのであろうか。(P.45)
これに対し、テクスト論はまた、さまざまな可能性を探った。その代表的な考え方が、ハンス・ロベルト・ヤウスの……「期待の地平」という考え方で、我々読者と作者とが同じ「地平」に乗っていることを想定し、その地平像をもって読者像とする考え方である。
……もう一つは、読者像は全て、テクストに先験的に含まれている、という考え方であり、イーザーもまた、『行為としての読書』において、これをImplied Readerという概念で整理している。……要するに、テクストに含み込まれた読者像である。(P.46~P.48)
読者の機能はテクストに組み込まれているとしても、テクストを社会的産物とするならば、そこに想定される読者もまた、そのテクストが所属する社会の慣習から自由ではないはずだからである。要するに、読者の読み方は、社会的なコードや読みの慣習など、先行するあらゆる読書行為をなぞるのである。(P.52)
……この際、テクストの論理だけでは決定不能な要素について、当然ながら読者の慣習からの判断が働くことが考えられるのである。(P.52)
テクストというあるひとかたまりの言語の群が小説である、と我々に認知されるのは、いったい何によってなのであろうか。(P.72)
例えば、通常、書物にはタイトルが書きつけられ、作者名が書かれている。……我々は、多くの場合、小説を読む前にタイトルを目にし、作者名を納得している。このときから、読書行為は始まっているのかも知れない。(P.72)
素朴な物言いにおいて、本を読むという時、そこには文字から浮かび上がるイメージを捉える作業と共に、この書物を手で持ち、頁をめくるという作業をも含んでいることは、否定できまい。……我々は、生のテクストに直截触れることができないために、テクストが纏う衣裳をも、そのテクストの一部として、認識せざるをえない。この、テクストに纏わりつく、テクストの一部として認定できる範囲までの衣裳が、パラテクストである。(P.71~P.72)
ジュネットは、パラテクストについて、「それによってあるテクストが書物となり、それによってあるテクストが読者、より一般的には大衆に対し、書物として提示される、そのようなものである」とも述べている。(P.73)
つまりテクストは、概念上は非物質的であるが、読書行為という伝達の場に置かれた時、必然的に物質的存在となる。これを書物と呼ぶとすると、……テクストと実際の印刷物との間に、もう一段、あらためて書物という概念を置くことができるのではなかろうか。(P.80)
(注、現代では)あらゆる作者は、正しく自分が当の作者であることを、文脈として読者に強要する。著名になればなるほど、その傾向は強くなる。これは、作者の側の傲慢を言う言葉ではない。むしろ読者がそのように読むように方向付けられるということである。……もし文学という現象が伝達行為として措定されるならば、パラテクストとは、テクストの外部にありながらも、テクストの本質を指し示すとも考えられる。(P.76)
恐るべきは、その行きすぎによる誤読のみである。恋愛物語が、作者名に太宰治というパラテクストを持っているだけで、悲恋のものと読み替えられる際、どこからか誤読の一線を越えてしまうのである。……制度性は、パラテクストによって増幅され、テクストの周辺に再配置されると言っても過言ではなかろう。(P.78)
結局、我々が文学の社会性と述べているものも、実のところは、全読者、全人類なるものを対象としているのではなく、……文学は、ある意味で、閉鎖的な内輪の伝達を前提としている。しかもそれは、「文学なるもの」という実に不確かなものを内容とする、実に曖昧な閉鎖的伝達である。(P.81~82)
創造するとは、神のように、全く最初から何かを作り出すことではない。あくまで、これまで用いられてきた言葉やモチーフを再利用し、そこに組み直して再出発させることである。……フライは同じ書の別のところで、作者を「産婆」と譬えている。(P.38)
同じ言葉を用いながら、新聞などの媒体では芸術ではないのに、なぜ小説に用いられたなならば、それが芸術性を、持つのか。というより、芸術性は、言葉そのものの形式でないならばどこに存しているのか。(P.91)
嘘や偽りが虚構なのではなく、それらを、真実は真実のまま、いかに加工しているのか、つまり、短縮や省略など、いかに作品として効率的で効果的なものへと生まれ変わらせているのかに、文学性の根拠を求めるわけである。……文学の文学性は、内容とはほとんど関わらない。なぜなら、内容は文学以外のジャンルでも表現可能だからである。……文学とは、いかに作られたものであるかの跡づけによってのみ、その文学性を測ることができるものと、考えられるのである。(P.92)
※後記 投稿したあとで確認したら、予想以上に読みにくいものになっていました。真銅先生ごめんなさい、別にイヤガラセではないです(汗。 文章自体は濃密ですが平易なので、ワードかなにかに貼り付けて読まれることをお奨めします。…というより買って読まれることをお奨めします。 亭主拝。
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