2009年7月23日木曜日

雑談


今日もきっと、どこかのスレッドで交わされているに違いない、マンガやアニメに関する雑談。

最近のマンガはおもしろくない、と A は言う。
今のJUMPは全て似たり寄ったりで、JUMP黄金期には及ばない。
A の小~中学校時代、JUMPは黄金期と呼ばれる絶頂期を迎え「DRAGONBALL」、「SLUM DUNK」、「幽遊白書」の三大人気作が軒を並べ、「シティハンター」、「聖騎士聖矢」、「ラッキーマン」、「こち亀」、「るろうに剣心」など硬軟とりまぜて人気作が併載されていた。
今のマンガは、黄金期の亜流にすぎない、と、 a も言う。派手でアクションが多いが、意外性がない。そして黄金期のリメイクブーム。「シティハンター」「北斗の拳」の続編も連載が始まって随分たつが、オリジナルには遠く及ばない。まるでハリウッド映画だ。
そうだそうだ、と、その他大勢の野次馬たちも納得する。

そんなことはない、と B は言う。
ワンピース、NARUTO、BLEACH、今のJUMPを支えている人気作の売り上げは黄金期の作品の多くを上回っている。よく読んでみろ、今のマンガのほうがよっぽど面白いのだから。
b もそれに加わる。今はJUMP以外にも面白い漫画がたくさんあって、現に見ろ、今ドラマや映画で話題になるのは、ほとんど漫画原作だぞ。

実は「のだめ」や「もやしもん」の愛読者でもある A たちはひるむ。
B たちの感想は、自分たちが先行するマンガ作品に対して思っていたこと―横山光輝やちばてつやのマンガに対して思っていたことと、同じではないか?ひょっとして、「今のマンガが面白くない」のは、自分が年を取っただけなのだろうか?

でも、と、新しく加わったCが言う。
「DRAGONBALL」以前に「DRAGONBALL」はなかった。
「ワンピース」は、結局「DRAGONBALL」をはじめて読んだ衝撃には適わない。

じゃあ、
とbが発言する。
僕は「DRAGONBALL」連載時には読んでいなかった、いや生まれていなかった。
僕には「DRAGONBALL」の面白さはわからないの?



作品を読む、ということは、どういうことなのだろう。

時代を超えて読み継がれる、永遠不変の「価値」などあるはずもない。
すべての人間は歴史的存在であることを免れず、結局は自分たちの生きる時代の許容する幅で、ものごとを価値付けていくしかない。

歴史のある断面、ある一時期において、「すぐれていた」作品と、
比較的に長いスパンで、「優れている」と称され続けていた作品、がある。
本質的な意味において、どちらが勝っているということはない。
価値付けをするのは、常に読者の側のエゴである。
ぶっちゃけ、「おもしろい」という読者が一人いれば、その作品は「おもしろい」のである。



バルト葬儀委員長閣下が高らかに「作者は死んだ」宣言をしたのも随分昔のことだが、
それでも我々はある作品を読むときに、その背後に「作者」を仮構してしまうし、
また作品に接するときには、「作者」の名前をたよりにするだろう。

作品に接する前に知ってしまう「作者」の情報(プロフィールや評価やキャラクター)や、「作品」の情報(内容や評価)、つまり「テクストの外部情報」というのが、文学理論でいう、パラテクストとかいうやつなのだろう。(聞きかじり)(ああ、ジュネット読まなきゃ)

純粋な意味で、外部情報から遮断された「作品」を味わうことなど、我々には不可能だ。



我々は、山口誓子という俳人を既に知っている。
山口誓子の「新しい素材」摂取の一例として出されることの多い、次のような句。
  スケートの紐むすぶ間も逸りつヽ  誓子
しかし、「新しい」という相対的な評価をするためには、そのほかの俳句を知らなくてはいけない。

掲句は、小学校の教科書にも採用されることがあるように、句意はきわめて明瞭。
だが、この句の背景として、「スケート」がそれまで俳句に詠まれることが少なかったこと、を知ったとき、作品の評価は変わらないだろうか。
この句の背景として、編み上げの「スケート靴」という文化自体が比較的新しいものであることを知ったとき、作品の評価は変わらないだろうか。
そのほか、この句が連作のなかの一句であり、全体には「アサヒ・スケート・リンク」と詞書があること、この「アサヒ・スケート・リンク」が作品発表の前年に大阪アサヒビル屋上に開設された人気スポットであったこと、などを知ったとき、作品への評価は、初めて読んだときよりも、より鮮やかになってくるのではないか。



我々、「国文学者」を名乗る人種は、より積極的な「外部情報」の取り込みを通じて、より豊かな作品理解を試みる。我々はその方法を「注釈」などと呼んでいる。

「注釈」や「研究」によって深められる「読み」とは、「読み」と同じものなのだろうか?

とりあえず、今、私の目の前には、真銅正宏『小説の方法 ポストモダン文学講義』(萌書房、2007)がある。


(つづく……?)

※参考文献
 青木亮人「スケートリンクの沃度丁幾―山口誓子『投稿』の連作俳句について―」『スポーツする文学―1920-30年の文化詩学』(青弓社、2009年6月)。

ここで作品とは「テクスト」と峻別された独立の用語ではなく、一般的な語彙として用いている。私自身が「テクスト論」の地平をまだまだつかみきれておらず、勉強中なのだ。

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