俳句Gathering vol.2の準備を進めている。
ようやく、今年の詳細を発表することができた。
blogも、約半年ぶりの更新となる。
正式なチラシはまだ完成していない。鋭意制作中である。
俳句をやりこんでいる人はもちろん、
俳句には興味があるが、敷居が高いと思っている人、
いままで俳句に興味も関心もなく、そもそも考えたこともない人、
すべての人に楽しんでもらえるような、お祭り的なイベントを企画したいと思っている。
とはいえ、実行委員会はそれぞれ仕事やプライベートがあるなかでの兼業であるうえ、ゼロからすべて手づくりなので、簡単なこともなかなか進まないことが多い。
結社やグループのプール金があるわけではないので、協賛企業をお願いしたり、個人の寄付金なども順次お願いしている。これから俳句の集まりに行くときには、こっそり募金箱を携えて、個人寄附をお願いして回るつもり。俳句Gatheringを応援してくださる方は、ご協力をよろしくお願いします。
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のっけから愚痴のようになってしまったが、俳句Gatheringや俳句ラボ活動を通じて、私としては、特に同世代に対する俳句のイメージを変えていけないか、と思っている。
俳句のイメージを変えていくことで、俳句にかかわる享受者を広げたい、と思っているのである。
表現は、表現史を更新するすぐれた表現者だけでなく、
その表現を受容し、作品に驚いたり笑ったり感動したりしてくれる「読者」がいないと成り立たない。
そして、散文と違って韻文の場合は、読むのに一定のルールがあるから、放っておいても読んでくれる、というわけにはいかない。積極的に「読者」を育てる努力も必要なのである。
その意味で、俳句甲子園が、毎年何百人もの高校生と俳句との出会いの場を提供していることは、それだけで驚異であり、すぐれた仕事だといえる。
当blogや、あちこちで機会を得るたびに強調してきたように、俳句甲子園の最大の功績は、神野紗希や佐藤文香、山口優夢のような、ごく限られた一部の「ゼロ年代作家」を生み出した点にあるのではない。
すぐれた作家を生み出す場であると同時に、多くの「俳句愛好家」を生み出す場であることが重要なのだ。
「俳句甲子園」の是非を論じる人々は、あまりにもストイックに、実力者、天才を求めすぎている。新聞の投稿俳壇がそうであるように、あるいは各地の俳句大会がそうであるように、その場から作家として、あるいは批評家として自立していく人など、ほんのわずかである。
それでいいではないか。
そのようなディープな「関係者」ばかりを「読者」に限定する必要はない。
俳句には、もっともっとライトな「読者」が必要なのだ。
参考.
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というのが、理論上の建前。
一方ではやはり、俳句甲子園の後輩にも、もっともっと深みにはまって欲しい気持ちがある。
簡単なはなし、お酒呑んで好きな句集の話とか、したいじゃないですか。
どんな作家が好き?とか。最近なんの句集読んだ?とか。
句会とかに行っても、世間話だったり近況報告が多く、好きな俳句の話をする機会が、案外なかったりする。
週刊俳句の特集の話とか、角川俳句受賞に対するあれこれとか、ときにゴシップまがいのあれやこれや、でお茶を濁すことの方が、多かったりする。
それはそれで、その場では楽しいのだけれど、思い返してみるとせっかく「俳人」なのに「俳句」じゃなくてその周辺の話題ばかり話しているのは、とてももったいないことだ。
私が甲子園に出場するときは、今ほど「若手ブーム」ではなかったから、参考にした本はひと世代前の人たちとあまり変わらない。
小林恭二『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』(岩波新書)が一番のバイブルであり、これは今でも座右の書。何度読み返したかわからない。
アンソロジーとしては、むろん平井照敏『現代の俳句』(講談社学術文庫)が一番数も多く顔ぶれも安定しているが、通読するには多すぎる。読み物としては大岡信『百人百句』(講談社)、金子兜太編『現代の俳人101人』(新書館)、正木ゆう子『現代秀句』(春秋社)あたりにお世話になった。春秋社シリーズは結構読んでいて、富安風生『大正秀句』が絶品である。
実は塚本邦雄『百句燦燦』(講談社)を手にしたのはずいぶん後である。山本健吉『定本現代俳句』(角川選書)も、買うだけは買ったが長らく積ん読だった。むしろ読みふけったのは川名大『現代俳句 上下』(ちくま学芸文庫)で、このあたりに私の嗜好があるといえるかもしれない。
作家としてはじめに好きになったのは、関係の深い塩見先生や坪内先生、山口誓子の三人を除くと、三橋敏雄。これは小林恭二の著作で知って、なんとなく好きになって、句集も1、2冊、すぐに買っている。<鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中>、<石段のはじめは地べた秋祭>なんて、なんでこんな句ができるのかと痺れた。
思うに、三橋敏雄にはホームランよりヒットが多い。金子兜太や高柳重信のように時代を画する爆発的な表現ではなくとも、じわじわ、何度読んでもいいなぁ、という句がたくさんある。
ちなみに、印象は全然違うのだが、そういう、句を続けて読んだときの感触みたいなものが、私にとっては池田澄子さんと三橋敏雄に共通していて、二人とも、句集を読んでいると「○」ばっかりになってしまう作家である。
そのうちに高柳克弘さんが登場し、『凜然たる青春』(富士見書房)の連載が始まって、こちらも多大な影響を受けた。
ライトな読者を増やせ、ということとは別に、やっぱり、好きなものは好きだし、どんどん読んで、一緒に好きな物について話したい気持ちは、あるのである。
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