※1/28、一度アップした内容に追記しました。
年末に塩見先生から勧められた、岡井隆・金子兜太『短詩型文学論』(紀伊国屋書店)を読んでいる。
数多い短歌・俳句入門書に欠けている理論体系につき、実作者が情熱をこめて贈る問題書
という帯の惹句にふさわしい、なかなか「熱」のこもった本なのだが、どうもしっくりこない。
読んでいる限りには刺激的でおもしろいのだが、本を閉じてしばらくすると何が書いてあったのかよく思い出せない。
本書に限らず、どうも私は俳句に限らず創作実作の理論書、というのが苦手らしい。
私がこれまで受けてきた教育(国文学研究)では、「論文」というのは、何かを明らかにし、その成果を客観的根拠に基づいて論証する文章を謂う。
この場合、論じる対象は必ず論者に外在し、論者は対象に対し客観的に分析を加え、対象のどの部分をどう明らかにしていくか、ということが問われる。
一方、実作の理論書は、資料に基づいて何かを明らかにするということではなく、実作者の実感に基づいて俳句創作という行為について考え論じる、それ自体を目的にしている。
いわば、創作という自分に内在した、あるいは自分の延長上にある行為について考えるわけで、「実作者」として創作行為を論究することに意義がある、と考えるならば、客観的根拠に基づいたり、何か新しい発見をしたりする必要はない。
そして、そうした「創作」への理論的考究に対して興味が持てないとすれば、少なくとも私は実作的な意味で俳句評論家になれないし、俳論を書く、というのも難しい。(参考.藤田哲史の俳論はすぐれて作家的である)
ちなみに『広辞苑』で「論文」を調べると、以下のように出ている。
① 論議する文。理義を論じきわめる文。論策を記した文。私の謂う「論文」は②であり、世間一般に謂うものは①であることが多いようだ。
② 研究の業績や結果を書き記した文。
『広辞苑』第五版
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上のようなことは、昨年、竹中宏さんにお会いしたときに、
「君は実作者なのか研究者なのか」
と問われたのがきっかけで考え始めたことである。
そのときはお隣に「研究者」の青木さんがいたので、そのような問いになったわけだが、しかしそう聞かれて私はどうも答えづらかった。「研究者」でないのはむろんだが、だからといって竹中さんの言うような意味で、つまり「俳句表現の探求者」としての意味で、私が「実作者」であるかどうかは、自身、はなはだ疑問である。
同時代の優れた俳句表現に出会いたいという欲求はあるし、それが自分の作品であればこれ以上の悦びもないが、他人の作品であったとしても読者としては充分うれしい。従ってむしろ「俳句愛好家」のほうがすっきりする。
そのような私にとって、読み応えのある「俳論」とは、「作家的」なものではなくて「作家論」的なものであり、個別具体の作品、作家の魅力を分析することによって俳句全体への見方を変えてくれるような、そんな評論が、もっとも望ましい。
ところで、私のひいき目かもしれないが、近年の俳句界においては大上段の創作理論を展開する大論客が登場しないかわり、個別の作品分析において優れた解釈を見せる論者が増えているのではないだろうか。
当blogでとりあげた評論家たちは、そのような傾向のなかで現れた人たちである。
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若手評論家たちの、いわば先輩分にあたるのが高山れおな氏である。
私が読んだ高山氏の文章はおもに「―俳句空間―豈weekly」や「詩客」での時評形式のものだが、確固たる問題意識を持ちながら繰り出される論鋒は(ときに過剰なほど)鋭く、また具体的なものでああった。
ただし、その論法がしばしば挑発的でジャーナリスティックに過ぎることは、本人も認めるところである。(参考.日めくり詩歌 俳句 高山れおな(2011/10/20))
ちなみに高山氏については、自称なのか他称なのか「The Last Romantic」の二つ名がある。(仮想シンポジウム【「新撰」「超新撰」世代ほぼ150人150句選をめぐって】上田信治)実にふさわしいと思う。
本人によると俳句との出会いは古本屋で芭蕉、蕪村の句集を濫読したことからだそうだ。「Romantic」の所以たる「理想」も読書経験によって自ら育て上げたものであり、「読者」としてひろく俳句史を見渡すところからキャリアをスタートさせているのである。そのため、関悦史氏や上田信治氏同様、高山氏も「読む」行為に意識的である。
彼の批評行為が明晰なのは、芭蕉・蕪村といった「理想」を明確な指標として、つねに俳句表現史を意識した「読者」目線で行われるからだろう。その意味ではむしろ、独自の美意識に基づいたアンソロジーをネット上にアップし続ける冨田拓也氏に近い部分もある。
しかし違うのは、高山氏は自分の問題意識を「ジャーナリスティック」に時流に対応させ、発表することを恐れないことである。
「豈weekly」運営中のわずか1年余り、高山氏は多くの論争の主役となり、過激に俳句界を刺激してきた。
その「豈weekly」をきっかけに生まれた『新撰21』(邑書林)は、俳句界だけでなく隣接諸分野にも少なくないインパクトを与えたが、これこそ高山氏(個人ではないにせよ)の、俳句史的な問題意識を反映させたものだったはずだ。
ただしこれは、高山氏によって『新撰21』の作家たちが領導されるとか、組織されるとか、そういうことではない。傍目にどう写るかはともかく、私は(身びいきもふくめ)若手たちは、そう簡単になびいたり、染まったりはしまい、と思う。
実は私自身、高山氏の論争に関係したことがある。結局立場の違いを確認しただけだったが、お互いの問題意識をきちんと認識していれば異なる立場にあっても議論が可能だ、という言葉をもらったことで、今後、どのように議論が展開させうるだろうか、と楽しみにしている。
(※追記 このことに関連して付言しておく。高山氏の論法は相手の言説を逐次解体しながら綿密濃厚に反駁を加える、というものである。はっきり言って、高山氏と立場を違える者がつきあうのは相当しんどい。その姿勢も含め、俳句の多様性にこそ第一の魅力を覚える私としては氏の論に賛成できないことが多い。ただ、感情にまかせた言いっぱなしではなく、建設的に議論として展開するためには、立場の違う者同士でも具体的な「読み」のレベルで問題意識を比べ合うことが重要ではないか、と思っている。)
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俳句ジャーナリズムの系譜が、筑紫磐井氏から高山れおな氏へとつながっているとすれば、現代の若手でその資質を備えているのはおそらく、神野紗希と山口優夢のふたりではないか、と思う。
ふたりとも「週刊俳句」の時評で健筆をふるい、優夢のほうはそのままジャーナリズムで就職してしまった。
二人の時評は、しばしば性急な論理展開が目立ったが、そのことも含めて話題性があり、少なくともネット上では注目されることが多かった。
特に「総合誌の時代の終焉? これからの俳句とメディア 神野紗希」は、総合誌の在り方ということから俳句メディア全体へ提言を含み、「神野紗希」という立ち位置の有効性を再認識させるものであった。
さて、こうしたジャーナリズム、時流に対応した批評活動とは真逆の文章を発表し続けている若手がいる。
西村麒麟さんである。
すでに当blogでは何度も紹介してきたが、「きりんのへや」は週2回というハイペースで連載が続いており、俳句、川柳、短歌とジャンルを問わず自分の嗜好に合った作家、作品をとりあげてコメントしていく、という手法でファンを拡大し続けている。
(あの長文が毎回携帯電話で投稿されている、PCを持っていないらしい、という事実が発覚したときは衝撃が走ったものである)
麒麟さんの鑑賞は、作家の業績を批評的に分析するのではなく、ただ「好き」な作家、作品を「紹介」する、という態度に徹しており、最近はコメントもだんだん短くなってほとんど読後感をツイッターでつぶやいているような、そんな感じである。
ただその筆致は実に軽やかで楽しげで、二十代にしてほとんど芸談の域といえる。むろん時流とはまったく無関係で(たまに「ナウいキリン」がありますが)、選ぶ作家も作品も、まったく自由自在なのである。
彼の取り上げる作品は、しばしばその作家の代表的作品ではなく、むしろ一般には見過ごされているような句であることも多い。また代表的作品であっても、句集全体を見渡すことで別の面が見える、ということもある。
要するに麒麟さんがやっているのは、批評や分析の土台となる、まったく地道な「読書」なのである。
これに近いのは小林恭二「『悪霊』の諸句」(『実用青春俳句講座』ちくま文庫、に所収)であろうか。
これも批評以前の、ただ読後感を列記したような文章だが、それが『悪霊』の、ほとんど暴力的な存在感を際立たせていて読み応えがあった。私が永田耕衣の魅力を知ったのはこの文章のおかげである。
このようなスタイルは、異なる立場の俳句を批判したり攻撃したりする(ときにジャーナリスティックな)「闘争的」な批評に比べると消極的で批評性に乏しいように見える。
しかし、一般的な「読み」の常識を排して自分の好みに準じた読み方に徹する、という行為は、当然自分以外の「読み」の常識に対するアンチテーゼであり、充分に批評的な行為である、といえる。
むしろ毒素がないだけに、きわめて建設的で誠実な批評行為(もしくはその基礎作業)である、といえるだろう。
ただ、麒麟さんのスタイルはきわめて特殊であり、紙媒体ではほとんど魅力が半減するという急所がある。今後、麒麟さんの「芸」域がどのように展開するか、は、ファンの注目するところなのだ。
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