2010年7月4日日曜日
アンソロジーの楽しみ。
ネット社会では旧聞に賊することかも知れないが、先週号の「週刊俳句」で、上田信治氏の現代100句選が出た。
テン年代の俳句はこうなる──私家版「ゼロ年代の俳句100句」作品篇
テン年代の俳句はこうなる──私家版「ゼロ年代の俳句100句」解説篇
1から100まで、きっちり上田さんの眼で選ばれたことがよくわかるアンソロジーであり、何よりも「今後10年(テン年代ともいう)の俳句の行く先を、過去10年の作品をして語らせたいと考えました。」というきわめて明確な批評性をもった選句であることが重要。
視野の広さ、問題意識の明確さ、上田さんの「俳句を読む眼」に改めて信頼感を覚える。
佐藤文香がつぶやいてましたが、「これは、日本人必見だと思う。」
少なくとも短詩型にかかわる人たちは、見ていて損はないアンソロジーです。
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「現代詩手帖」100首選、100句選は、それ自体よりも、波及効果のほうが興味深くなっている。
俳句と川柳と現代詩とを股に掛け、実作と評論を並行して展開し、しかも本職はオーストラリア文学・詩の研究家という、いろいろボーダレスな湊圭史氏が、現代川柳誌『バックストローク』の50句選に挑戦されている。
スゴイのは、50句選を選ぶための「予備動作」として、第1号から候補作を抄出する作業を公開しているのだ。現在6号までなのだが、量がハンパではない。
海馬 みなとの詩歌ブログ
川柳にほとんど触れたことのない私は、『バックストローク』限定とはいえ現代川柳作品をまとめて見る機会はほとんどなく、いろんなことを考えるきっかけにさせて貰っている。
湊さんと昨年末に知り合ってからとりあえず気をつけるようになったのは、軽々に「川柳的」という語を使わないこと。現代川柳の世界は、実にとらえるのが難しい。
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以前も書いたが、これまで特権的に「選者」であった結社の主宰的な立場の人ではない、「読者」として俳句を読み続けてきた人の選句眼を、もっと信じていいのではないか。
富田拓也氏しかり。関悦史氏しかり。上田信治氏しかり。
彼らは実作者でもあるが、たとえば俳句総合誌に、「読者」の眼はどこまで担保されているか。藤原龍一郎氏、佐々木六戈氏のような、横断的な作家が登場することがあるくらいで、たとえば穂村弘氏や小池正博氏が寄稿することは滅多にないと思われる(キチンと調べてないが)。
「俳句」が座の文学であるというのは、作者からの一方通行ではなく「読者」の視線を常に意識しているからこそ、ではないだろうか。外部の読者、新規の読者にも、もっと割り込みやすい「座」を用意してほしいと思う。
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「俳句を読む」リテラシーの問題を考えている。
俳句を「読める」ことの特殊性に自覚的になり、それを「育てる」という認識を持つことはとても重要である。結局「読める」というのは、ある程度ルールや約束や先行句や、いろんな枠組みを自分の中に持っていないと「読めない」のだ。小説や映画だと小さい頃から少しずつ訓練するのであまり気づかないが、しかし実際には、意識して読んでこなかった人は、いつまでも読めないままなのである。「読む」能力は、育てないと成長しない。
ただ、「読む」ことを特権的に構えるのも危険である。「読む」ことは奥義でも秘儀でもなく、訓練(分量)や少しの助言で身につくものだ。俳句や短歌を楽しむことと、一子相伝の秘訣を知らないと読めないような暗号文をやりとりすることと、それは少し違うだろう、と思う。
少なくとも、<文芸一般に多少の興味を持っている人たち>にとって、俳句が気になる存在であってほしい、のだ。
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