2010年7月19日月曜日

きつね~あるいは俳句と他者~

東京へ行くついでがあったので、山口優夢、越智友亮両氏に連絡をとり、東京の若手何人かに会うことにした。
真夏日のなか、優夢氏の呼びかけで江渡華子、生駒大祐氏と合流し、そのあと野口る理、西村麒麟氏まで合流。
その日の内に関西へ帰るつもりだったので最後は慌ただしくなってしまったが、近況報告をかねていろいろ話す。話題はほとんどが俳句関係、合間に二度ほど即興句会をしたり。同世代で同じ趣味について何時間も話すことができるというのは恵まれた時代というべきだろう。
普段、俳句にかんして関西にいる有利を感じることもあるが、東京の人の多さはやっぱり魅力的。普段そういう場所で鍛えられている若手と交流するのはとても刺激になる。
わざわざ時間をとってくれた皆さま、ありがとうございました。江渡さん野口さん、浴衣眼福でした。麒麟さん、ケロッピィ楽しみにしてます。(以上、私信)

いわゆる「俳句甲子園」世代の特徴としてよく、無所属で動いている存在が指摘されるが、実際にまったく無所属で活動を続けている人は少数である。多くは大学のサークルや、先輩の所属する結社に入会して活動している。(*1)
むしろ特徴的なのは、結社に属しながらも結社外のつながりに積極的であること、というべきだろう。
それはまた、句会派ということでもある。句会に積極的に出席し、他の人の眼にさらされることで自分の俳句を作っていこうとする傾向が強い。そもそも「甲子園」がチームによるディベートを前提にしたゲームであり、また複数の審査員による評価を常に意識させる場であった。俳句の入り口自体が句会に親和性が高かったのである。
これは多かれ少なかれ現代の若手に共通する特徴だが(*2)、「甲子園」参加者も単独の俳人に憧れたり、唯一の作句法を信奉したりするよりは、相対的にさまざまな俳句を愛する傾向が強い。「甲子園」参加者の句会好きは、自らと異なる俳句観に積極的に接し、俳句全体を愛したい、「俳句」への偏愛とでもいうべき行動なのかもしれない。

これを俳句における「他者」の問題にからめて論じることもできる。
俳句を作るのは結局は自分なのだし、句会に出ず自分だけで作句するという方法もある。
事実、自分の中で熟成された言葉をつむぐ作家のなかには、一句に見事な緊迫感や迫力を籠められる作家が存在する。
ただ、自分の価値観だけで俳句を作っていくといつか袋小路に陥り、自己模倣に走るしかない。所詮、自分の中にしかないカードはそう多いものではないし、日常を過ごしながら緊迫感ある作品を量産しつづけることのできる作家など、およそ存在しない。

一生に一句畢生の句を生む、芸術主義的志向を求めるならそれでも充分だ。

しかし、俳句を読み詠む行為を楽しみ続けたいと思うとき、自分以外の評価・価値観に接することは重要だ。句会とはそのための場と考えていい。摂るにせよ摂らないにせよ、自分にない方向性を知ること。その刺激が自分のなかから新しい俳句を生む。あるいは、生む可能性がある。(*3)
他者性を意識することこそが、作品を豊かにすることは明白であり、それをよりリアルな形で現出させるのが「句会」であるということは、実体験的に明らかと思う。(*4)

ここで、他者とは何だろうか。
原理的に言って、異なる個体は他者といっていい。たとえ双子であっても思考嗜好を持つことはありえないのだから、他人は永遠に他人である。
一方、高山れおな氏が言及するような意味での「他者」をどう考えればいいか。私は「現代思想の方で盛んに言われるようになった他者概念」(高山)については不勉強でよくわからないが、たとえば、



われわれが真摯な体験として「他者」を意識するのは、「他者」が自分にとって理解可能な存在として立ち現れる瞬間ではない。それはまったく逆に、コミュニケーションの相手との会田に「通約不可能な」(incommensurable)関係が現出する時である。

E.レヴィナスは「他者(性)」の問題を終始提起し続けた有数の思想家であるが、彼にとっての「愛」は通常われわれが思い抱くような、「他者」との完全な融合ではありえない。一見平穏に見える融合的、対称的な愛の関係は「他者」の声を封じ、「他者性」という通約不可能なものを自己同一的な思考の枠内に押さえ込もうとする関係に他ならない。

土田知則「テクストのなかの他者性」(*5)
を参考にするならば、同じ句会で同じ俳句リテラシーに添って同じような句を同じように読む「仲間」は「他者」たりえないかもしれない。究極的に言えば、「俳壇」コミュニティの内部に、「他者」など存在しないのかもしれない。
だが、そうであれば一層、コミュニティの外を意識し、「他者」的な視線を意識すること、「他者」に出会う努力を怠らないこと、は重要になるのではないか。
あまり形而上的にばかり考える必要はあるまい。
同じ句会を同じように続けていくばかりでは句会全体が「同一化」してしまうが、異なるメンバーの句会に出たり、外部からのゲストを招くことは必ず違和感をもたらす。その対立こそ「他者性」であり、「他者性」によって自らの俳句を育てようという行為は、誤っていないと思う。
むしろ、すべての俳句を相対視せざるをえない現代において、自らの俳句を育てるためには「他者」を求めていくことにしか可能性がないとすら思えるのだ。

そのような相対主義に陥っていることが、幸か不幸かはわからないが。


テクストを読むということは、共有的なコンセンサスに達するということではない。通約不可能な異質性、つまりは「他者性」に対して、いかに自らを開くことができるか、それこそが肝腎なのである。
前掲、土田


なぜか東京へ行くと、キツネの俳句をよく作る。東京は確かに稲荷の多い土地ではあるのだが。
きつね来て久遠と啼いて夏の夕


  • *1 まったくの無所属というと、神野紗希、佐藤文香、野口る理、越智友亮らが思いつくが、特例といっていい。甲子園から結社に入った作家としては、すぐに森川大和(いつき組)、藤田亜未(船団)、山口優夢(銀化)、藤田哲史(澤)などを想起する。また東大、早稲田、慶應の俳句サークルは甲子園世代も含めて多くの若手作家が属している。厳密には結社といいにくいものもあるが、結局、作品の発表媒体や定期的な句会の場を求めると特定のグループに属さざるを得ないのである。
  • *2 外山一機「消費時代の詩」『豈』49号
  • *3 坪内稔典『俳句発見』(富士見書房)などを参照されたい。
  • *4 小林恭二『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』(岩波新書)、『俳句生活 句会の楽しみ』角川学芸出版、2008.10.31
  • *5 土田知則、青柳悦子、伊藤直哉『現代文学理論 テクスト・読み・世界』(新曜社)

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