2010年6月23日水曜日

備忘録、現代詩手帖


『現代詩手帖』6月号が図書館に入っていたので読む。
もう少し考えをまとめてからと思っていたのですが、ちっともまとまる様子がないのでこのへんでアウトプット。思いつくままダラダラと。



こちらの勉強不足と苦手意識があるせいか、「現代詩」の人の発言はどうもわかりにくいように感じる。
岡井隆×松浦寿輝×小澤實×穂村弘、の座談会でも現代詩寄りの話題になるとついていけない。それでも不案内な現代短歌について、笹井宏之氏の位置付けなどは興味深く読んだ。

たしかにこういう、一見すると既製の「壇」からまったく無関係な存在が話題になる、というのが現代の特徴なのだろう。これまではそういった存在がいても、大なり小なり「壇」と関わりを持たなければ話題になることは難しかった。現在では「壇」とは無関係なネットや同人誌にも作品発表や批評の場があり、また中央の「壇」もそれに反応する用意がある。(『俳句』誌が先の対談に関悦史氏の起用したことも画期的だろう)

ただ一方で、新媒体で活躍している若手が総合誌を無視しているかと言えば、そうではない。むしろ様々な媒体が乱立している状態だからこそ、中心点となる、ある種の公的空間を強く求めているというべきだろう。
短歌は知らず、昨年「俳句の未来予想図」で神野紗希氏が指摘していたような、若手の角川俳句賞へのこだわりもその一例である。あるいは、「週刊俳句」「豈weekly」の発展も、ブログ乱立の時代にオフィシャルな空間を作っておきたい気持ちの表れではないだろうか。

当方のような個人的な空間(ブログ)は、言ってみれば同人誌よりまだ小さい、友人知己にむけた会報レベルだろう(それでもどこで他人の目に触れるかはわからないし、友人知己にも怖い見識の人がいるので一応見せられる文章を書く努力はしているつもり)

一方、「週刊俳句」「豈weekly」のように多くの人間が混じり合う空間は、ネットの開放性も含めてすでに総合誌的存在になりつつある。そういう場では一定の水準を踏まえた議論がなされるべきだろうと思うし、それはブログのような感情的言いっぱなしであってほしくない、とも思う。

もっとも二つのサイトはともにブログ形式をとっているので、こんなことはいち閲覧者の勝手な欲望なのかもしれないが、たとえば「ふらんす堂編集日記」でも、個人的なブログ記事と「週刊俳句」記事や「e船団」記事とは分けて取り扱っている様子が見える。(個人ブログでの書評にはいちいち対応していない)
いまの社会に必要なのは、このような「オフィシャルを育てる」自律性ではないだろうか。



100首選、100句選はいろいろと楽しめたが、やはり指摘があるとおり黒瀬氏の選に比べ、高柳氏の選は特定の俳人に偏る傾向があるようだ。こういう企画はやはり並び大名とか大御所揃えみたいなところがあって、できるだけ多くの人を並べたほうが目にも楽しいのではないか。とはいえ、私のように世間の隅っこで所属同人誌くらいしかまともに読まない不精者にとっては、さすが広い視野からの俯瞰図で興味深く、面白く読んだ。
高山れおな氏の―豈weeky版ゼロ年代百句 検討篇も大変楽しかったのだが(高柳さん100句選が選ばれる過程も公開してくれたら面白いのに。きっと誰を入れるか相当悩まれたに違いない)、やはり高山色が非常に濃厚なラインナップだといえる。
むしろ冨田拓也氏の俳句九十九折(87) 七曜俳句クロニクル XLの目配りがさすがであって、氏が詩歌アンソロジー編集を専門にされたらそれだけで名をなすのではないかと思われる。

書きながら思ったのであるが、対談にしても100句選にしても、富田拓也氏や関悦史氏のような、いわゆる既製俳壇とは無関係に現代詩歌の読者から俳句に参入してきた人の眼のほうが、俳句専門誌ではない『現代詩手帖』の企画には相応しい記事になりえたのではないか。


それは別に高柳氏や小澤氏がどうこうなのではなく、俳句の文脈で物事を読まない/読めない人に対して俳句を紹介できる人材は誰か、ということだ。今の大相撲協会や自民党ではないけれど、広報にこそもっと外部の眼が必要なのかも知れない。


その意味で、高柳氏が対談のなかで、結社の役割を「読む技術を育てる場」として再評価したいと言っていることは、いろいろな意味で示唆深い。
高柳さん、これって、「俳句というものが、同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事」という桑原発言を全面的に肯定していることになりませんか。つまり俳句の文脈で読む訓練をした愛好者、同好者でなければ「読めない」ということ。
むろん、そのほうが私の俳句観にとっては都合いいわけで、立場は違えど同じ発想の味方を得たという心強さを感じるわけですが。

 

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