「週刊俳句」プロデュース、『俳コレ』(邑書林、2011)を読んでいる。
『新撰21』、『超新撰21』に続く邑書林の新人アンソロジー第3弾、ということで、柳の下の泥鰌狙いか、と多少気構えしながら読み始めたところであった。
感想。
うん、悪くない。
いや、結構いいんじゃないか。
ぱっと読んで好き嫌いがあり、読み直すと、いろいろ発見があり、じわじわくる、佳さもある。
『新撰』シリーズのように年齢で区切ったわけではなく、10代から70代まで、しかし、これまで取りあげられる機会の少なかった作家たちが集められている。
その意味でやはり「新人」なのだが、年齢、地域、結社にはほとんどこだわりが見られず、
若手発掘、という大義名分を否応なく背負っていた『新撰』シリーズの緊張感がないぶん、
いい意味で、編集部のわがままな、私撰のアンソロジーとして受け取ることができる。
かといって個人の選ではないから作品のバラエティ、振れ幅も楽しむこともできる。
まぁ、単純に私がまとめて読みたかった作家が何人も収載されていた、ということもあるのだろうが。
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本書と『新撰』シリーズとの違いは、「週刊俳句」の掲げる「読者」の立場が明確に出ているところだろう。
編集部の「はじめに」に、次のようにある。(抄出)
●本書は、十九歳から七十七歳(刊行時)の、比較的新しい作家の作品を集めた俳句アンソロジーです。
●入集作家の選定は「週刊俳句」編集部がおこないました。総合誌、年鑑等からピックアップした数十人におよぶ作家の作品を、結社誌等に当たって検討し「この人の作品をまとまった形で読みたい」と思われた作家に、入集を依頼しました。
●作品を他撰とした理由は「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます。
●本書が、同時代の俳句の多面性を示すアンソロジーとなること。同時代の読者の潜在的欲求の中心に応える一書となること。それが、編集部として、自ら本書に課した主題です。
自選でなく他選であること、また小論執筆も多くは選者が担当していること、これが本書の大きな特徴である。
また今回、作者略歴は各作品の末尾についており、生年、所属のほか[影響を受けた人][意識していること]が記されている。
前者には結社の先輩や師匠をあげる人もいるが、全然俳句と関係ない人名もあがっていたり、また[意識していること]もそれぞれバラバラ。
このあたりも『新撰』では作者の作句信条が各作品の扉についていたのに比べ、随分簡素というかドライというか、作品重視の編成である。
加えて巻末座談会の人数も多く(上田信治、関悦史、池田澄子、岸本尚毅、高柳克弘)(『新撰』は「編集部」=牙城氏?がいるのか)、これも読み手参入意識が見える。
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改めて思うに、私が「週刊俳句」やspicaの人々に共感するのは、「詠む」だけでなく「読む」意識があるからだ。
ここで先日の記事 に関わってくるのだが、spica座談会ではその読者意識に触れながら、寸止めで議論が展開しなかったのが不満だった。
「女性俳句」「男性俳句」も、本来は作者自身の(実際の)セックスやジェンダーに回帰されるべき問題ではなく、今後は読者の側の、読みの切り口として捉え直されるべきなのである。
関悦史氏のいう、「B型九州出身俳句」も「O型俳句」も、読みの切り口として提示されているのであり、作者側で意識して作ってみよう、ということではないだろう。
女性性を意識して作句する作家は少なくなかろうが、血液型や星座を意識して作句する作家は、(いないとは言わないが)極めてマレだろうと思う。
(例:獅子座の作家が自己中心的、権力的な句を意識して作る、等。)
徳本の「男的一句」という試みも、本来そうした読みの実践として記憶されるべきなのであるが、残念ながら取材範囲がきわめて狭いため、達成度についてはまだまだというしかない。
しかし、いま現在、俳句の「辺境」から少しずつ「新しい波」が起こっているのだとすれば、それはネットを媒介とする「詠み」から「読み」への転向、本格的な「読み」の時代が来たことによるのではないか。
この「波」のなかで俳句甲子園出身者が目立つのは、むしろ当然である。
甲子園の形式は、俳句だけでなくディベート(鑑賞)が俳句に必須であること、を参加者に徹底する。
甲子園をスタートとして、その後も俳句に関わり続けている人々の共通点は、誰もみな、作るだけでなく読むこと、鑑賞することへの意識が高い。
その意識は「週刊俳句」などの姿勢と共通しており、そこに私自身も惹かれるのである。
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