2011年12月22日木曜日

雑談。

 
たとえ話として出すのも恐縮だが、御中虫さんの句集タイトルにもなった代表句のひとつ、

  おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ

に対して、過激で悪い意図があるように見える、とか、誤解を招くのではないか、というコメントを目にしたことがある。(まあ当然であろう)
おそらく世の中にはもっと批判的、排除的な意志をもって評する人もあろうと思うが、その時見たコメントはごく丁重なもので、ただ過激な表現で驚いた、といった至ってふつうの感想から発したものと思われた。(今もネット上で見ることができる)

批評でも鑑賞でもない単なるコメントなので別にとりあげる必要もないのだが、気になったのはその評のなかに、「本人が車椅子使用者ならば問題はない」云々の意見が見られたからである。

気分は、わかりますよ。
でもね。
ちゃいますやん、と思う。

本人が車椅子使用者であろうが、車椅子使用者の親族であろうが、逆に車椅子根絶主義者であろうが、作者が使用者ならばなぜ「問題がない」のであろうか。
本当に表現として人を傷つけ、発表することに大きな問題がある、と思うのであれば、それは使用者の詠であっても同じであろう。作者自身が使用者だからと言って、あるいは使用者に近い立場だからと言って、それで使用者全体を代表できるわけもない。
そもそも「車椅子使用者の詠」などと普遍化されてしまっては、作者の個性すら見ていないことになり、作者にも迷惑千万だろう。

掲句はもちろん「倫理崩す」句、過激で暴力的であることをウリにした句なので、生理的、心理的に好きな句ではない、あるいははっきり嫌いな句である、という意見も、当然ありうるだろう。俳句の佳さを、微温的なほほえましさ、心地よさ、にのみ求める人々から好まれないからといって、それは掲句の傷にはならない。

それはそれで、いいではないか。

たとえば句会に出た句ならイヤでも目につくとか、言及せざるをえないこともある。
あるいは評論家を志すのであれば、感情論ではなくその句のよい面、わるい面を評する必要もある。
でも、ただ俳句を楽しむだけなら、嫌いな句は素通りしておけばよろしかろう、と思う。
批評として書かれるならば相応の建設性もあるが、そもそも句を「おとしめる」ための批評というものに存在価値があるのかどうか、ちょっと疑問である。



話はかわるが、今年の紅白に出場する歌手のなかに、「猪苗代湖ズ」というバンドがある。
クリエーターの箭内道彦氏やサンボマスターの山口氏ら、福島県出身者で結成されたバンドで、今年の大震災をうけて「I love you & I need you ふくしま」を唄う姿がテレビでもよく取りあげられていた。
正直言ってこの歌、歌詞として新しみは感じられない。
しかしまぁ、この曲調で連呼される「I love you & I need you ふくしま」のメッセージはストレートでそれなりに感動的であり、聞いて元気になれる、という人も多いだろう。それはそれで、よいではないか、とも思うのである。

そして、J-POPには、これはこれでよい日常的楽しみを受け止める許容量があるのに対して、俳句や短歌、現代詩にそれがないとすれば、それは、現状商業ベースに乗っていないから、というのではなく、案外表現を貧しくしてしまうのではないか、とも思うのである。

もちろん、表現として新領域を開拓する、そういう表現者としての在り方は貴い。
また、読者としても、つねにそうした新しい表現に出会う期待を持っている。
しかし、一方でやはり、さまざまなレベルでの「読み方」「楽しみ方」を許容できない詩型に、果たして未来はあるのか、とも思うのである。


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