2012年9月29日土曜日

告知

 

告知をいくつか。



まずは明日ですが。

俳句ラボ ~若い世代のための若い講師による句会~ 
柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。 
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください) 
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫 
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・参加費:1回500円 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・日 程 
第4回:9月30日(日)・・・袋回しを行います。


ご都合の合う方は、当日飛び入り歓迎です。是非お気軽にご参加ください。



その、柿衛文庫。
今年は案内が遅いなーと思っていたのですが、ちゃんと実施されるようです。

第9回鬼貫青春俳句大賞募集(11月20日(火)必着)
 
芭蕉(ばしょう)とほぼ同じ時代を生きた上島鬼貫(うえしまおにつら)は、10代からさかんに俳句を作り、自由活発な伊丹風の俳句をリードしました。柿衞文庫では、開館20年を機に今日の若い俳人の登竜門となるべく「鬼貫青春俳句大賞」を2004年から設けました。みなさんの作品をお待ちしています。

●募集要項●
 ☆応募規定・・・俳句30句(新聞、雑誌などに公表されていない作品)
 ☆応募資格・・・15歳以上30歳未満の方(応募締切の11月20日時点)
 ☆応募方法
  ● 作品はA4用紙1枚にパソコンで縦書きにしてください。
  ● 文字の大きさは、12~15ポイント。
  ● 最初に題名、作者名、フリガナを書き、1行空けて30句を書く。
   末尾に本名、フリガナ、生年月日、郵便番号、住所、電話番号を書く。
  ● 郵送またはFAXで下記まで。
 ※応募作品の訂正・返却には応じません。
 ※応募作品の到着については、必ずご確認くださいますようお願いいたします。
 ※応募作品の著作権及びこれから派生する全ての権利は、(公財)柿衞文庫に帰属します。
 ※個人情報は、表彰式のご案内および結果通知の送付に使用し、適正に管理いたします。
  また、柿衞文庫の事業のご案内をさせていただくことがございます。
 
 公益財団法人 柿衞文庫(こうえきざいだんほうじん かきもりぶんこ)      〒664-0895 伊丹市宮ノ前2-5-20
 電話/072-782-0244  FAX/072-781-9090
 
 ☆応募締切・・・2012年11月20日(火)必着
 ☆選考・表彰・・・2012年12月15日(土) 午後2時~5時                  於 柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)
 
● 下記選考委員(敬称略)による公開選考[どなたでもご参加いただけます。]
     稲畑廣太郎(「ホトトギス」副主宰)
     山本純子(詩人)
     坪内稔典(柿衞文庫 也雲軒塾頭)
     岡田 麗(柿衞文庫 副館長
    (社)伊丹青年会議所 理事長         
 以上5名(予定)
 
  ● 賞
     大賞1名〔賞状、副賞(5万円の旅行券)、記念品〕
     優秀賞若干名〔賞状、副賞(1万円の旅行券)、記念品〕      
 
主催 公益財団法人 柿衞文庫、也雲軒
共催 伊丹市、伊丹市教育委員会(予定)
後援 伊丹商工会議所、伊丹青年会議所、株式会社 角川学芸出板(予定)
 

例年はもう〆切過ぎているんですが、今年は遅いんですね。
公開選考会は12月ですか。寒いな。



あと、こちらはもうご存じかと思いますが。

第23回青年部シンポジウムのお知らせ
  「洛外沸騰 ―今、伝えたい俳句、残したい俳句―」

11月17日(土)、関西では10年ぶりとなる現代俳句協会青年部シンポジウムを
開催いたします。 協会、年代に関わらずどなたでもご参加ください。

今日、情報技術の急速な発達を背景に
俳句と俳句以外のものとの出会いが頻繁かつ容易になった。
それにつれ、ジャンルを越境した相互的創発の潜在可能性は
 かつてなく高まっている。
そのとき俳人は俳句にとっての他者に対して俳句の何を、どう伝えたいのか。
俳句というジャンルを担ってゆく若者や後世に対して何を、どう残したいのか。
俳句でしか伝えられないこと、残せないことはあるのか。
千年の王城の地・京都の秋深まる頃、
気鋭の若手俳人及び研究者が洛外に会して熱く語りはじめる。
 
■日 時
平成24年11月17日(土)
14:00(会場13:30)~17:00(予定)(懇親会=18:00~)

■開催場所
知恩院 和順会館 京都市東山区林下町400-2(TEL 075-205-5013)

■出 演
パネリスト  青木亮人(俳句研究者)
         岡田由季(炎環・豆の木)
         松本てふこ(童子)
         彌榮浩樹(銀化)
司   会   三木基史(樫)

■主 催
現代俳句協会青年部/関西現代俳句協会青年部

■参加費
シンポジウム      一般 1,000円 学生 500円
懇親会(18:00より) 一般 6,000円 学生 4,000円
お申込みの上、参加費・懇親会費は当日会場でお支払い下さい。
関西では珍しく、大きめの「俳句イベント」。
パネリスト全員と知り合い、なもんで、これは楽しみ。
キャラクターが随分違うので予測がつかないが、どんな展開になるのだろうか。

 


2012年9月27日木曜日

「共同研究 現代俳句50年」を読む(6)

 

第8章 根源志向 川名大

「根源俳句」運動とは、周知の通り、俳誌「天狼」(昭和23年1月創刊)に拠った中堅俳人たちによって、戦後俳句の推進、深化という明確な目的意識を持って「天狼」創刊以来、昭和二十年代末までを中心に展開された文学運動である。
『天狼』創刊同人は、山口誓子を中心に、西東三鬼、橋本多佳子、秋元不死男、榎本冬一郎、高屋窓秋、山口波津女、平畑静塔など13名。その創刊号は一万部ちかい冊数を売り切ったというから、当時の期待、人気のほどが伺える。

山口誓子は戦中、伊勢で療養生活を送っており、内面的作風へ深化していたとされる。
三鬼をふくめた『天狼』同人が、創刊号に書かれた誓子の「酷烈なる俳句精神」「俳句のきびしさ、俳句のふかまり」などの語に啓発されて「根源」探求へ向かったことは言うまでもない。
また、誓子の『七曜』以降の句が「根源俳句」の基準となっていたことも確かである。
しかし、誓子以外の作家による概念規定や表現方法の確立は、明確にはなされなかった。
というより、論客ぞろいの『天狼』作家が、「「根源」という語がおのずと示唆するベクトルにそって、求心的・探求的・一元的な方向に展開する中で、何を根源と捉えるかをめぐって同人内で各人各説が飛びかった」のである。
根源俳句運動は、論としては、「根源」の意味内容をめぐって百家争鳴の様相を呈し、平畑静塔の「俳人格」説のような一種の態度論などを生み出したが、表現方法論への言及は希薄であった。 
百家争鳴の論を、作品上の成果という結果論的な相関も視野に入れて振り返ってみると、神田秀夫の生命論、平畑静塔の俳人各論、永田耕衣の東洋的無や諧謔の発言は、根源俳句運動が俳句表現史の展開を促すうえで重要な働きをした、と思う。
逆に、堀内小花が初期から中期にかけて精力的に行った図式的な作品の分類・分析は、労多くして、いたずらに混乱を招きこそすれ、実りが少なかった。
川名氏は「根源俳句」運動が俳句表現史にもたらした成果を評価しているが、同時に、心理主義的な傾向におちいって作風が一律化し、狭くなっていった点も手厳しく指摘しており、特に評論についてはあまり成果が出なかったようである。
実際、『天狼』同人には論客がそろっていたが、現在まで読み継がれている評論はほとんどない。
有名なものに、平畑静塔の「俳人格」説があるが、これはむしろ川名氏のまとめるとおり、虚子の句の主体が痴呆的精神をみせる、という指摘により、「卓抜な虚子論になっていること」を押さえておけばよく、全体としては創作する側の精神論というか自己修養のような話になってしまい、その意味で不毛である。
 
川名氏は『天狼』作家のなかから耕衣、多佳子らがあらわれたことを重視しつつ、「根源俳句」運動がもたらした成果について以下のようにしめくくっている。
耕衣は自らの形而上性に執し、多佳子は自らの肉体と情念に執することで、それぞれ誓子のバリアから抜け出た俳句様式を樹立した。・・・このことは、文学運動と個性の確立との相関について、俳人に示唆を投げかけている。


第9章 雑誌「俳句」創刊 坪内稔典

『俳句』は、昭和2761日、角川書店によって創刊された(雑誌奥付)。当時定価は「九〇円(地方定価九三円)」だったという。

以後、『俳句』は、昭和9年創刊の『俳句研究』とならび、両翼として俳句ジャーナリズムを形成してきた。『俳句研究』は昨年秋(2011831日)休刊(という名の廃刊)してしまったが、『俳句』のほうは無事に創刊六〇周年を迎え、今年いろいろ特集を組んでいたのは記憶に新しいところである。

坪内氏が紹介する『俳句』創刊号は、扉に高浜虚子の祝いの一句「登山する健脚なれど心せよ」を掲載、内容は岡崎義恵(日本文芸学者)、風巻景次郎(中世文学研究者)、平畑静塔、神田秀夫らの論文・評論が掲載され、飯田蛇笏、阿波野青畝、山口誓子、中村草田男ら一八名による「諸家近詠」、頴原退蔵の「冬の日鑑賞」(遺稿)、山本健吉の「現代俳句」(山口誓子鑑賞)、永田耕衣の「聴耳草紙」(一般時評)、中島斌雄の「俳壇時評」など。

中世文学を専攻している人間としては風巻景次郎氏の名前に反応してしまうが、こうした一線級の研究者の評論を掲載していたのが、発行者・角川源義の目配りだったのだろう。
また、美学の観点から文芸史を探求した岡崎義恵は、ここで「俳句の叙情性」という論文を書いている。これものちに角川源義が『河』を創刊(昭和33年)し、叙情性の回復を課題としたことと同様の志向があるようだ。
 
坪内氏は、戦前の『俳句研究』と違い虚子の協力をとりつけたことで幅の広さを確保しているが、すでに代表的な仕事をなした実力者をそろえた誌面からは新しい魅力を引き出すことが難しく、「地味で堅実な印象」である、と評する。

創刊号の「編集後記」(「K生」と署名があるそうで坪内氏は石川桂郎かと推測)には、
近代の文芸である「俳句」を、接頭語も接尾語もつけずに大通りを歩かせたい、という決意や、外部の批評(第二芸術論)を意識しながら、自前の批評、思想を育てようという意欲が明確にあらわれている。

坪内氏は、俳壇の総合誌の役割として、「結社を超えた広い場を提供する雑誌」であり、「俳壇の外にいる人でも興味を持って読めるという条件」が必要だ、という。「後者の条件を欠くとその雑誌は業界誌になるだろう」。

その条件に適っていたのが、子規時代の『ホトトギス』であり、戦前の『俳句研究』であった。『俳句研究』も、虚子本人は協力しなかったがホトトギス系の作家は多く執筆しており、自由律からホトトギスまで網羅した「総合誌」だった。

『俳句』創刊と平行して角川書店は積極的に俳壇にかかわるようになり、文庫版の句集の出版や大部の歳時記刊行、角川俳句賞や蛇笏賞などを設立し俳人の顕彰にも尽力するなど、多角的に俳句に関わっている。その意味で『俳句』は、角川書店という背景を含めた意味での「総合誌」であった。
社主・源義には「俳句を核とした文化の発信」という夢があり、その夢を具現化させたのが山本健吉であった、と坪内氏はいう。
(源義が日本文化の継承・発信を信じていたのは確かだが、俳句が核であったかどうかは私自身はよくわからない。私などからすると角川源義は軍記研究、民俗研究の大家でもあるからだが、少なくとも山本健吉との協力関係が大きかったことはよくわかる。)

坪内氏は最後に、『俳句』昭和278月号における草田男との対談での山本健吉の発言を引いて、それが「「俳句」を創刊した時代においては、俳句を俳壇の外へ開く、もっとも刺激的な見解だった」と評価している。
僕はね、大きな点からいふと、俳句作家といふものは独白の世界、モノローグの世界へ入り込んでしまつた、根源俳句は、ことに甚だしいと思ひますけれども、それはやはり危険を感じますね。一人合点にいつちやふんだ。

 

2012年9月19日水曜日

読書記録

 

更新が滞っているので、最近の(俳句関連)読書記録など。

 *

小林恭二『この俳句がスゴい!』(角川学芸出版、2012.08.24)

『俳句研究』誌に連載されていた「恭二歳時記」から10人を抜粋、再編したもの。
高浜虚子、種田山頭火、尾崎放哉、久保田万太郎、西東三鬼、加藤楸邨、石田波郷、森澄雄、金子兜太、飯田龍太、の10人。


どれも知名度抜群の作家ばかりで、俳句を知らない人にも、俳句をもっと知りたい人にも、はばひろく自信をもって勧められる好著。
本書ではあえて、いわゆる「名句」が優先して紹介されている。
作家も10人だけなので収載句数は多くないが、世間一般に著名な「名句」が簡便にわかる、アンソロジーとしても出来が良い。俳句読むのは好きだけど、あまり句を覚えられない、必須の句だけ教えろ!的な人にちょうどいい。

同じような人は多いだろうが、私も高校生のときに『俳句という遊び』『俳句の楽しみ』(ともに岩波新書)で俳句を知って以来、小林氏のファンである。当然、「恭二歳時記」は、連載時に全部読んでいる。
この連載が始まった平成15年は、まさに私が大学に入学した頃。当時の私は毎月図書館で『俳句研究』を立ち読みし、「恭二歳時記」と、もうひとつ高柳克弘氏の「凛然たる青春」をコピーするのが習慣だった。たぶん今でも全部そろっていると思う。

小林流鑑賞術の魅力は、その自在さであろう。
基本的には一句の言葉から読み取るが、場合によって作家の置かれた時代背景や、人生なども折り込んだり、ときには自分の体験談を交えたり、誤読を承知の上で深読みしたりすることも辞さない。

共通するのはただ一点、一句がもっとも活き活きする方法で「読む」ことだ。
マジメなばかりでなく、拍子抜けするような句にはツッコミをいれ、意味不明な句には首をひねり、自分の趣味に合わない、過大評価と思う句には率直に疑問を投げかける。

読者として、どこまでも誠実にして真摯、まっとうなのである。
奇をてらわずとも、ただ真摯に「この俳句がスゴい!」と伝えるだけで、俳句の凄さは、充分に伝わる。本書には、それだけの迫力と魅力がある。

残念なのは、長い長い「恭二歳時記」連載から、抜粋がわずか10人だということ。山頭火、放哉はページ数も少ないし、「自由律」で一括してもよかったのではないか。
特に、著者の複雑な感情が行間ににじむ「高柳重信」や「摂津幸彦」などが脱けているのは惜しい。その他、「中村草田男」「渡辺白泉」「三橋敏雄」「寺山修司」など、改めて読みたい作家は多い。

できれば、もっと簡便な文庫版で、増補をお願いしたいところだ。

 *

対中いずみ『巣箱』(ふらんす堂、2012.07.07)

著者より謹呈をうけた。記して感謝する。
対中氏は、改めて紹介するまでもないが、田中裕明門下の作家。同人誌「静かな場所」の代表でもある。本書は著者の第二句集。
対中句集の魅力については、帯にも引かれている正木ゆう子氏の栞文の一節、

対中さんの俳句から読みとれるのは、たっぷりと水を湛えた湖の、静かな真水の気配である。その印象はこのたびも変わらない。ひんやりとつめたい真水の清らかさをこの集の一番の個性と思いつつ、もう一方で惹かれるのは、詠まれた生き物たちの命の温もりである。

が、言い尽くしていよう。
このとおり、対中さんの句は「水」に喩えられることが多いが、実際句集にも「水」にまつわるものが多い。特に前半には、舞台としては「みづうみ」、素材としては「水鳥」(鴨、鳰)が選ばれることが多い。


 ときをりは鴨あらそへる水の音
 みづうみの北の桜も散りにけり
 はつなつの太平洋のものを干す
 波の跡うすくかさなる九月かな
 月繊きことも水鳥引くことも
 ひとまはり小さき水輪や鳰


どれも田中裕明門下らしい、静やかで透明度の高い佳吟である。これらの句に不快感を持つ人はいないだろう。現代俳句のなかでも、もっとも上質な部分が結集しているといえる。
とはいえ、もっとも目を引いたのは正木氏も注目する次の句だった。修辞にそつのない作者にして、このストレートな一句は異色である。


 鼻面に雪つけて栗鼠可愛すぎ
 

 *

内野聖子『猫と薔薇』(創風社出版、2012.07.24)

著者より謹呈をうけた。記して感謝する。
著者は「船団の会」会員。本書は著者の第一句集。
代表句はやはり、坪内稔典氏の帯文にも引かれる、


 どろどろでぐちゃぐちゃの夏きみがすき

であろう。
現実的にはどんなに無謀で無秩序な失敗であっても、一句として提示されたなかでの感情の発露は、圧倒的に力強く、美しい。この「夏」は、無造作だが絶対的に動かない。一般に俳句は感情表現、特に恋愛感情などを積極的に出さない詩型であるといわれるが、だからこそ、無鉄砲さが際立つ。
そのほか面白かった句は、

 軍艦のゆるりと進み春の波
 五月晴愛し愛され生きるのさ
 どのへんでやめておこうかほたるとぶ
 この町は雷がやたらと近い
 湯たんぽを抱えた猫がいってらっしゃい

など。
「季語+人生の感慨」という取り合わせのパターンが多いのが、やや類型的といえるかもしれない。五月晴」は、下五「生きるのさ」が良いと思ったが、「花冷えやまっすぐなことばの痛さ」「願い事決められなくて流星や」「本能のままに生きたし蜜柑むく」などの句は当たり前で面白くない。
このあたりの判定は、個人差もあって難しいところではある。


 
山本健吉『山本健吉俳句読本第一巻 俳句とは何か』(角川書店、1995.05)
 
例の「共同研究」などを読むうちに、古い評論を読み直してみたくなった。
山本健吉は、部分的には読んでいるがまとめて読むのははじめてかもしれない。改めて読むとやはり面白い。
山本健吉と言えば『現代俳句』の、出来上がった評論家調しか思い至らなかったが、有名な「時間性の抹殺」(初出「批評」1946.12)など、戦後直後で、著者は39歳だったのだ。
何と言っても僕は年若い俳人たちとの気の置けない付合いから、極く自然に俳諧と言うものを学んで来たようである。僕の俳句への理解も、言ってみれば、草田男・楸邨・波郷氏等が独自の世界と風格とを形成しつつあったのと、ほぼ歩みを合せて、成熟して行ったのだ。 
「第Ⅰ章・挨拶と滑稽 一、時間性の抹殺」『俳句とは何か』
なんか、若々しくて力強いではないか。
「純粋俳句」とか「ディアローグの芸術」とか、用語としてはなお検討を要するけれども内容として示唆されることは多い。
 
批評とか評論とか、ついつい私たちはネットで探したごく新しいものをさっと流し読みしてすませてしまうことが多いが、評論史の蓄積をふまえないなら、議論はいつまでも深化せず、同じところにしか至らない。

「批評行為」とは、ただ論理的に分析すればよいのではなく、読者に新たな視点を導くようなものをめざすべきである。そうである以上、先行する批評をふまえてから批評行為に臨むことが、後に生まれた人間の、当然の責務というものだろう。


※ 9/21、誤植訂正。一部追記。
 

2012年9月16日日曜日

近況報告

 

ご無沙汰しております。

うかうかしている間に前回の更新から随分間があいて、はや9月も中旬になってしまいました。



週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第282号

に、「8月の俳句を読む」を掲載いただいております。
タイトルは編集部で付けてくれたみたいですね。




俳句ラボ、9月の当番は私です。
 
俳句ラボ ~若い世代のための若い講師による句会~ 
柿衞文庫の也雲軒では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。 
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください) 
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫 
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・参加費:1回500円 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・日 程 
第4回:9月30日(日)・・・袋回しを行います。
袋回しのルールを知らない人でも参加可能です。準備はいりません。
筆記用具と、できれば「歳時記」をご持参ください。

ともかくその場で、即席で俳句を作ります。まぁ、やってみりゃわかります。

ご都合の合う方は是非ご参加ください。



昨日は、たまたま作業が一段落したところだったので、大阪で行われました「川柳カード・創刊記念大会」にお邪魔してきました。

「川柳カード」は、樋口由紀子さんが代表、小池正博さんが編集をつとめる川柳誌。
(参照:週刊「川柳時評」:川柳カードをどう切るか
系譜としては、「バックストローク」の後継誌ないし系列誌、という位置づけでよいのかな。
2012年7月に、創刊準備号として「0号」が発刊され、実はまだ創刊号=1号は刊行されていないのですが、創刊されていない雑誌の創刊記念大会というのも、なかなか面白くていい。

さて、今回の「創刊号記念大会」は2部仕立て。
第一部は、池田澄子×樋口由紀子のトークショー。
第二部は、川柳大会。
兼題が「脈」「すれすれ」「ピーマン」「割る」「品」、事前投句題「カード」の6題で、それぞれ2句ずつ出句。

当日は私のような飛び入り参加も少なくなかったようで、100人を超える参加者(主催者発表109人、水滸伝より一人多い)が参集。用意された席がすべて埋まり、補助椅子が導入される事態に。
ちなみに当日の選者には「川柳塔」や「琵琶湖番傘」など、いわゆる「伝統系」に所属している方もおり、川柳シーン全体においても、たいへん期待された「創刊」だ、ということがよくわかるわけです。



さて、開会宣言で樋口さんは、
川柳をはじめて30年になりますが、いまだにわからないことがあります。それは、川柳とは何か、ということ。その問いを、もっと考えていきたい。
 川柳カードは、1年おきか2年おきか、このような大会を開いて、他ジャンルの人を招いて話を聞くことにしたい。川柳のなかだけでは見えないことが、他ジャンルとの比較のなかで見えてくることがある。

と述べ、「由紀子の部屋」第一回ゲストに「他ジャンルにも人気のある」池田澄子さんを紹介した。

池田さんとのトークショーでは、ふたりの「俳句」「川柳」との出会いから、それぞれの師匠(池田澄子-三橋敏雄、樋口由紀子-時実新子)との関係、師匠の言葉、池田さんの思う「川柳っぽい自句」の、なにが「川柳ぽい」のか、などなど、川柳と俳句との境界をめぐってさまざまなトークが交わされた。

トークの最後のほうで、川柳の句会初体験の池田さんが俳句の句会との違いにびっくりしていたのが興味深かった。
川柳句会のルールは、俳句作家はたいてい驚くが、まずそれぞれの「題」に一人ずつ「選者」が付く。そして選者が、投句された中から何十句も「抜く」(選句)する。選者は撰んだ句を「披講」する。読み上げられると作家が名乗りし、次の句の披講に移る。ここには「合評」の入り込む余地がない。ここが違うところだ。
川柳の場合は「抜」かれない句はそのまま消える。したがって、川柳人は基本的に「抜かれる」ために句を作ることになる。

ところが、池田さんは句会には「自信のある句は出さない」のだという。そして句会に出すのは自分だけでは判断に迷う句であり、自句の欠点を聞くために出席するのだという。

池田さんのように「自信のある句は出さない」「自分の欠点を聞きに行く」とまで思うのは極端にしても、句会で実験作を出して主宰や周囲の反応を伺う、というのは、俳句界ではごく日常的であると思う。

二人のトークでは、この句会形式を通じた、「句との接し方」が、川柳と俳句との一番の違いなのでは、というあたりで時間切れとなり終了した。

話の流れでオチがついたとはいえ、句会形式のありかたというのは確かにジャンルの性格を形成する大きな側面だろう。
(というか、そもそも「句会」という形式で文芸を楽しむこと自体が大きな特徴だ)



大会の詳細については、おそらく川柳プロパーの側からのまとめも出るだろうし、なにより「川柳カード」創刊号で述べられるはずなのでこのへんで。



2012年8月25日土曜日

「共同研究 現代俳句50年を読む」(5)

 

第7章 座談会 昭和二十年代をめぐって [全員+ゲスト]


第7章は、5章までの連載をふり返る全員参加の座談会。ゲスト、上田五千石氏の紹介のあと、「第1章 第二芸術論の時代」をめぐる議論が展開される。川名大氏の議論が興味深いので焦点をあてたい。

川名氏は、自己表現を打ち出そうとした近代的方向も反近代の方向も受け入れ、広い視野で多様な句を見たい、といい、その点では坪内氏、仁平氏とも違わないだろう、と言っている。しかし異なるのは、
坪内さんが俳句形式を短小で片言の形式ととらえるのに対して、私はアンビバレンツな重層形式だと考えている所です。脆弱で片言なんだけれど、季語・切字・構造などの支えによって、いわば宇宙的に飛翔できるしぶとい形式だと思います。 
「俳句を作ることは、菊作りや盆栽に夢中になることと同じでよい」という坪内さんの強調点、私もそこまでは賛成です。でも、菊作りなら菊作りのマニア、菊作りの専門家のレベルで捉えるのか、ちょっと庭に菊を植えてみるというレベルで捉えるのかで、だいぶ違ってくると思うのです。・・・言葉を換えると、自己表現あるいは自我の表現を俳句に託せるのかどうか。

これに対して坪内氏は、
近代のある時期の俳句観として、俳句は自己表現だと考えた時期があるわけです。でも五七五で完全に自己表現ができるという考え方はちょっとまずいのではないか。・・・完全な自己表現ができないというところから俳句は出発したのではないか、
と述べ、川名氏の俳句観を「近代的」と切り捨てている。

坪内氏はまた、俳句は未完成であるがゆえに時代の影響を受けやすく、流行に流されやすい。しかし、戦後の虚子は世の流れから降りて、新局面を開く活力を失っていた。戦後は時代と関係なく自分の好きなように句を作っているようだ、と発言している。


これについてはもちろん本井氏から反論があり、戦後の虚子にも<去年今年貫く棒の如きもの><暁烏文庫内灘秋の風>などの句があり、決して活力がないわけでも、時代から離れているわけでもない、としている。
本井氏はまた、川名氏に対しては次のように疑問を投げかける。
川名さんは「自我を託する」という言葉をお遣いになるでしょう。俳句と自我とはちょっと隙間があるものだと私は思うんです。俳句とは自我を託しきれないものだという気持ち。そこのところが、これからも常に川名さんとは事あるたびにズレちゃうかなという気が先程もしたんです。
川名氏は、虚子は自我を消して零にしていく方向だが、自我を託す方向でも佳い句はたくさんある、と強調している。
このあたりがメンバー同士で対立を生む論点のようだ。
坪内、本井、仁平、の三氏はそれぞれ立場は違うが、自我を託す「近代」的方向性でないところに「俳句」を位置づける。メンバーでは川名氏だけが「近代」派、の位置づけ。

川名氏に対しては「第2章 雑誌『現代俳句』と新俳壇」についても、俳句の戦争責任に関する疑問が提起されている。仁平氏は、川名氏がある海軍少佐の俳句を「国策順応」時代の作品と捉えていることについて、
たとえば、あるイデオローグとして戦争に人々を駆り立てたというのであれば戦争責任があるけれども、俳句を作っている人にしか目にとまらないようなところでコツコツと書いていた俳句でしょう。こういう俳句も戦争協力というなら、何も言わないで黙っていた大衆も、黙っていたことによって戦争協力、国民全員に戦争協力という問題が発生してしまう。
と批判する。

坪内氏がいうように俳句が時代と密着しているとすれば、戦争の時代は戦争に関して俳句が作られるのが自然である。一方、川名氏は「時代の本質や趨勢に対して批判的な眼を持ちえたかどうか」という観点から、白泉や新興俳句の若手たちを重視する。
白泉らの表現が戦争批判という形で先鋭化し、力をもったのは事実だろう。しかし、時代の趨勢に対して批判的な作品だけが表現史を更新するわけではない。


川名氏は、戦後の「新俳壇」、つまり現代俳句協会や新俳句人連盟が、戦前の虚子、秋桜子ら文学報国会メンバーに対して復権する形で団結したことを重視しているのだが、これは上田五千石氏のいうとおり「それは文学上の問題でなくて俳壇の政治」である。

むしろ表現史の観点からいえば仁平氏の次の発言、
俳句という形式は、まず自分自身で誰でも持っている通俗さを受け入れるそして、それを見つめて、そこから、ちょっと大げさな言い方ですけれども、通俗でないものへ突き抜けていく。それが俳人の表現行為だなという気がしているんです。
のほうが説得的といえる。

この発言自体には川名氏も同意しているが、つまり、「国策順応」俳句が批判されるとすれば、戦争責任ではなく、戦争時代における通俗的、類型的表現であることによって評価できないのだ。
その意味では、どんなに反体制であっても現代の「震災俳句」や「反原発俳句」のほとんどが見るに堪えないことと、問題は共有される。これらは個人の「想い(感想)」として残されることはあっても、表現史に評価されるべきものではない。


問題は「俳句」における「大衆性」をどう捉えるか、ということで行きつ戻りつする。
坪内 日本文学報国会の俳人部会が非常に増えたというのは、俳句のある種の体質で、今でもそうですね。俳人協会や現代俳句協会は、ほかの文芸団体と比べても人数が格段に多い。他のジャンルから見ると変だなと思うでしょうし、あまり大したことではないかもしれない(笑) 
大串 大したことではないのですが、特徴ではあるんですね。・・・俳句は現代詩、短歌にある知性といっていいのかどうかわからないけれども、そういうものがない大きな裾野を持っている。それが特徴ですよ。
第二芸術論以後の「戦後俳句」では、大衆性を否定した方向に大きく動いたが、その後五十年を経て、むしろ大衆性、通俗性を認めたうえでどう付加するか、という視点が中心になってきているようだ。
単純な世代論ではくくれないが、川名氏から坪内・仁平氏へ、という評論家の世代交代を見ていると、そのまま俳句界の中心軸の推移を見ることができるように思う。
漠然とわかっているつもりでも、そうした流れを時代に即して見直すことができるのが、通史的研究の重要性である。


座談会では「青春俳句」や「療養俳句」についても意見が述べられているが、煩雑なので割愛する。
最後に、上田五千石氏の締めくくりの一言を引いておく。
作り手に句は下手でもいいから、自分はこういうところでやっているんだという歴史の自覚がほしいのですが、それがないんですね。これからこうした研究を積み重ねていけば、そういう歴史的認識ができてくると思うな。
「作り手に句は下手でもいいから」。

うん。大事なことなので二度言いました。

こういうことを言われると、私のような人間も立つ瀬があるというものだ。


2012年8月22日水曜日

『俳句いきなり入門』を読んでみた

  

最近、学生相手に「句会」の授業をするような機会もあるので、同じ関西圏ということでも関心をもっている千野帽子氏の『俳句いきなり入門』(NHK新書)を読んでみた。

帯におおきく「俳句は一発芸」と書いてあり、また「俳人はDJだ。句会はゲームだ。季語にはこだわるな。言葉を無限にひらく「座の文芸」にはまろう」とも書いてある。

私自身、人には「題詠」は大喜利、「取り合わせ」のパターンは「季語+あるあるネタ」だ、と紹介したりしている。だから本書のほとんどの部分には賛成で、楽しんで読むことができた。

本書の概要については、ぐだぐだ解説するより、目次を見るとわかりやすい。 

まえがき 短いんじゃない。俳句は速いんだ。

あなたの「俳句適性」をチェック!/「自分を表現したい!」って人に俳句は向きません/俳句は高度に知的な言語ゲームである

第一章 句会があるから俳句を作る
1 俳句を支えているのは作者でなく読者である
2 一句も作らなくても句会はできる
3 俳句は「私」の外にある

第二章 俳句は詩歌じゃない
1 俳句は速い
2 俳句は「モノボケ」である
3 俳句は散文の切れっぱしである

第三章 言葉は自分の「外」にある
1 千野帽子、はじめての作句
2 作句における「言語論的転回」
3 ダメな句は全部似ているが、いい句は一句一句違っている

第四章 だいじなのは「季語以外」だった
1 季語と歳時記の基本
2 季語の説明はしないこと
3 季語は最後に選べ 

第五章 きわめておおざっぱな「切れ」の考察  <以下小節見出し題省略>

第六章 文語で作るのは口語の百倍ラク

第七章 ひとりごとじゃない。俳句は対話だ。

作者が言いたいのは、ようするに俳句は「言葉」であり、「言葉」は自分の内にある思いを表しているようなもんではなく、外から借り物で使っているだけで、発せられたとたんに自分と関係なく自由に解釈されてしまうものだ、そして俳句はその「言葉」が作者から離れていく感じを体感的に楽しめる言語ゲームである、という、

つまり、「言いたいことがあるなら俳句なんて書くな」ということなのだ。

実際、句会では俳句は作者を離れて自由な解釈がなされていくし、実体験にもとづいて作った句が季語や全体のバランスから添削される、つまり「表現」された結果のほうが実体験や作者の意図よりも重視される場面に遭遇することも多い。

作者はこれを、「言語論的転回」と呼ぶ。

小気味いい断定調で、独りよがりなポエム志向を徹底的に否定する、その実践的な教授法は枡野浩一『かんたん短歌の作り方』なども想起させ、なかなか参考になる。なにより、無記名な句会の「対話」性を楽しもう、という本書の主張は、もっと世間に広めたい。

ほかにも、「俳句は速い」というキー・ワードは山本健吉の「時間性の抹殺」とつながるだろうかとか、坪内稔典は「俳句は片言」というが「散文の切れっぱし」と言い切ってしまうと「切れ」や「定型」と折り合いがつくだろうかとか、「写生」は「異化」だ、ということは前々から考えていたことに近いなとか、考えさせられることが多かった。


しかし、この本を誰かに紹介しますか、と言われると、ちょっと迷う。

「まえがき」で記されるとおり、本書は「まったくのは俳句未経験者、あるいは「俳句って年寄り臭い趣味でしょ」と思い込んでいる人、つまり俳句の「外」の人を読者に想定している」。 したがって、すでに俳句を年寄り臭い趣味と思っていない人、俳句を楽しんでいる人、まして当blogの訪問者のほとんどには、あまり意味がない。

では、俳句をまったくしない人にオススメできるだろうか。

それも少し迷う。とっつきやすい文体とは裏腹に、本書には要所要所に文学理論の用語やサブカル系のたとえ話が結構入っており、普段読書に慣れていない人にはちょっとしんどいのではないか、と思ってしまう。

そのほか「俳句未経験者」にすすめるには、いくつか違和感を覚える記述もある。

たとえば、後半の俳句技法に関する記述。
「切れ」を発句から解説して「言い切りのかっこよさ」とまとめ、「季語」を説明するような句はダメだと言って二物衝撃をおススメし、「文語俳句」のほうが俳句っぽく見えやすくてラクだ、とぶっちゃける。
なるほど、この通り作ればいかにも「それっぽい俳句」ができるだろう。だが、それにしてもストイックというか、初心者入門としては条件が多くはないか。
最初からポエムはダメ、口語は難しい、切れが大事、季語に気をつけろ、文語は正しく使え、と散々言われて、どれだけの人がついてくるのか、私などは心配してしまう。
(そういえば、本書の参考文献で私がほとんど参照したことがないのが、藤田湘子『俳句実作入門』『20週俳句入門』である。このあたりが千野氏との違いらしい)

結局、本書は「俳句入門」というより「言語論的転回」体験入門なのだ。

作者は、はじめての句会でむりやり句を作らされた結果、一句目は自分の体験や意図を大事にした「第一段階」の句しかできなかったが、二句目にはどのような「言葉」を使うかが大事だ、と「言語論的転回」に成功し「第二段階」に達した、という。
なぜ一句で卒業(注、言語論的転回以前の第一段階)したか。たまたま私がそういうタイプの「読者」だったからだろう。 
私は批評家ではないけれど、日曜文筆家としての仕事の大半は先述のとおり、小説や散文を読んでそれについて書くことだ。もともと私は小説の読者として、「作者の意図よりも結果のほうが大事」だと考えてきた。・・・でも初めて俳句を作ることになったとき、俳句は小説とは違うのかなと思って無理やり「これを言おう」という作りかたをしたら、うまくいかなかった。俳句も小説同様に、いや小説以上にそうでした、という話。

作者が「句会」に熱中する、その理由がよくわかる。

ところが「俳句」には、それ以外の面もある。句会では作品が作者と無関係に解釈されるけれども、句集や冊子の場合には、どうしたって「作者名」がついてくる。まとめて読むときにはやはり、句集一冊ぶんの「作家」の個性が見えてくるほうが面白い。

実作者としてやっていくとそこが一番問題なのだが、本書では、言語論的転回を経た、その先の「作家性」がどう立ち上がってくるか、という話は言及されていない。 
むろん、そこはむしろ千野氏の本業だろうから射程に入っていないわけがないのだが、そのあたりの見通しが、本書の記述だけでは一面的、という気がする。

本書が「外」へ向けて書かれた「入門」だからなのか、作者の眼は「外」に向いていて、「中」の、ゲーム性を逸脱していくような多様性(つまり基礎を終えた応用編)に関する記述が、あまりに少ないように感じられるのだ。
そこが本書の一番の違和感であり、「俳句の中の人」に無用の反発を生む要因であるという気がする。作者自身も本書のなかで桑原武夫「第二芸術論」を引いていて、坪内稔典氏の「第二芸術論的視点」と共通性を感じさせる。しかし、坪内世代ならともかく、今さら「中」か「外」かをケンカ腰で話す時代でもないだろう。
だから、我々「中の人」としては、言うべきなのだ。

千野さん、そんな「入り口」で踏ん張ってないで、「中」も見てみて下さいよ、と。


きっと、俳句のおもしろさは、「速い」だけでなく、もっと、「広い」。

 



※8/24、追記。
「詩客」 俳句時評で、湊圭史さんも本書に触れている。
やや辛口ながら、まぁ俳句時評としては当然か。「一発芸」というときの「芸」をどう読むかはむしろ「お笑い論」にもなりそうなので難しい。正直、又吉直樹のモノボケと、間寛平の一発ギャグと、テツandトモの「なんでだろ~」の、どれを基軸に置くかで全然違いますね。
倉阪鬼一郎『怖い俳句』は私も読みました。これもたいへん面白かったです。ご本人がいうように、学芸員さんが博物館案内してくれてるような感じで、嫌みなく俳句のあらましがわかる本ですね。

ついでなので、各界賛否両論の『俳句いきなり入門』評判まとめ。

2012年8月16日木曜日

俳句ラボ 告知

 

今月の「俳句ラボ」は京都駅周辺で吟行を行います。
講師は杉田菜穂さんです。
皆さま、お暇があれば是非ご参加ください。

俳句ラボ ~若い世代のための若い講師による句会~

柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・日 程第3回:8月26日(日)・・・吟行を行います。詳細は下記のとおりです。 
*集 合* 13時半に京都駅の時の灯(JR西改札すぐ)
*内 容* 京都駅ビル及びその周辺を吟行のち句会 
*参加費 500円程度(句会場費など) 
*申込先* 公益財団法人 柿衞文庫 ℡072-782-0244 
 *締 切* 8月25日(土) 午後6時まで