2012年9月27日木曜日

「共同研究 現代俳句50年」を読む(6)

 

第8章 根源志向 川名大

「根源俳句」運動とは、周知の通り、俳誌「天狼」(昭和23年1月創刊)に拠った中堅俳人たちによって、戦後俳句の推進、深化という明確な目的意識を持って「天狼」創刊以来、昭和二十年代末までを中心に展開された文学運動である。
『天狼』創刊同人は、山口誓子を中心に、西東三鬼、橋本多佳子、秋元不死男、榎本冬一郎、高屋窓秋、山口波津女、平畑静塔など13名。その創刊号は一万部ちかい冊数を売り切ったというから、当時の期待、人気のほどが伺える。

山口誓子は戦中、伊勢で療養生活を送っており、内面的作風へ深化していたとされる。
三鬼をふくめた『天狼』同人が、創刊号に書かれた誓子の「酷烈なる俳句精神」「俳句のきびしさ、俳句のふかまり」などの語に啓発されて「根源」探求へ向かったことは言うまでもない。
また、誓子の『七曜』以降の句が「根源俳句」の基準となっていたことも確かである。
しかし、誓子以外の作家による概念規定や表現方法の確立は、明確にはなされなかった。
というより、論客ぞろいの『天狼』作家が、「「根源」という語がおのずと示唆するベクトルにそって、求心的・探求的・一元的な方向に展開する中で、何を根源と捉えるかをめぐって同人内で各人各説が飛びかった」のである。
根源俳句運動は、論としては、「根源」の意味内容をめぐって百家争鳴の様相を呈し、平畑静塔の「俳人格」説のような一種の態度論などを生み出したが、表現方法論への言及は希薄であった。 
百家争鳴の論を、作品上の成果という結果論的な相関も視野に入れて振り返ってみると、神田秀夫の生命論、平畑静塔の俳人各論、永田耕衣の東洋的無や諧謔の発言は、根源俳句運動が俳句表現史の展開を促すうえで重要な働きをした、と思う。
逆に、堀内小花が初期から中期にかけて精力的に行った図式的な作品の分類・分析は、労多くして、いたずらに混乱を招きこそすれ、実りが少なかった。
川名氏は「根源俳句」運動が俳句表現史にもたらした成果を評価しているが、同時に、心理主義的な傾向におちいって作風が一律化し、狭くなっていった点も手厳しく指摘しており、特に評論についてはあまり成果が出なかったようである。
実際、『天狼』同人には論客がそろっていたが、現在まで読み継がれている評論はほとんどない。
有名なものに、平畑静塔の「俳人格」説があるが、これはむしろ川名氏のまとめるとおり、虚子の句の主体が痴呆的精神をみせる、という指摘により、「卓抜な虚子論になっていること」を押さえておけばよく、全体としては創作する側の精神論というか自己修養のような話になってしまい、その意味で不毛である。
 
川名氏は『天狼』作家のなかから耕衣、多佳子らがあらわれたことを重視しつつ、「根源俳句」運動がもたらした成果について以下のようにしめくくっている。
耕衣は自らの形而上性に執し、多佳子は自らの肉体と情念に執することで、それぞれ誓子のバリアから抜け出た俳句様式を樹立した。・・・このことは、文学運動と個性の確立との相関について、俳人に示唆を投げかけている。


第9章 雑誌「俳句」創刊 坪内稔典

『俳句』は、昭和2761日、角川書店によって創刊された(雑誌奥付)。当時定価は「九〇円(地方定価九三円)」だったという。

以後、『俳句』は、昭和9年創刊の『俳句研究』とならび、両翼として俳句ジャーナリズムを形成してきた。『俳句研究』は昨年秋(2011831日)休刊(という名の廃刊)してしまったが、『俳句』のほうは無事に創刊六〇周年を迎え、今年いろいろ特集を組んでいたのは記憶に新しいところである。

坪内氏が紹介する『俳句』創刊号は、扉に高浜虚子の祝いの一句「登山する健脚なれど心せよ」を掲載、内容は岡崎義恵(日本文芸学者)、風巻景次郎(中世文学研究者)、平畑静塔、神田秀夫らの論文・評論が掲載され、飯田蛇笏、阿波野青畝、山口誓子、中村草田男ら一八名による「諸家近詠」、頴原退蔵の「冬の日鑑賞」(遺稿)、山本健吉の「現代俳句」(山口誓子鑑賞)、永田耕衣の「聴耳草紙」(一般時評)、中島斌雄の「俳壇時評」など。

中世文学を専攻している人間としては風巻景次郎氏の名前に反応してしまうが、こうした一線級の研究者の評論を掲載していたのが、発行者・角川源義の目配りだったのだろう。
また、美学の観点から文芸史を探求した岡崎義恵は、ここで「俳句の叙情性」という論文を書いている。これものちに角川源義が『河』を創刊(昭和33年)し、叙情性の回復を課題としたことと同様の志向があるようだ。
 
坪内氏は、戦前の『俳句研究』と違い虚子の協力をとりつけたことで幅の広さを確保しているが、すでに代表的な仕事をなした実力者をそろえた誌面からは新しい魅力を引き出すことが難しく、「地味で堅実な印象」である、と評する。

創刊号の「編集後記」(「K生」と署名があるそうで坪内氏は石川桂郎かと推測)には、
近代の文芸である「俳句」を、接頭語も接尾語もつけずに大通りを歩かせたい、という決意や、外部の批評(第二芸術論)を意識しながら、自前の批評、思想を育てようという意欲が明確にあらわれている。

坪内氏は、俳壇の総合誌の役割として、「結社を超えた広い場を提供する雑誌」であり、「俳壇の外にいる人でも興味を持って読めるという条件」が必要だ、という。「後者の条件を欠くとその雑誌は業界誌になるだろう」。

その条件に適っていたのが、子規時代の『ホトトギス』であり、戦前の『俳句研究』であった。『俳句研究』も、虚子本人は協力しなかったがホトトギス系の作家は多く執筆しており、自由律からホトトギスまで網羅した「総合誌」だった。

『俳句』創刊と平行して角川書店は積極的に俳壇にかかわるようになり、文庫版の句集の出版や大部の歳時記刊行、角川俳句賞や蛇笏賞などを設立し俳人の顕彰にも尽力するなど、多角的に俳句に関わっている。その意味で『俳句』は、角川書店という背景を含めた意味での「総合誌」であった。
社主・源義には「俳句を核とした文化の発信」という夢があり、その夢を具現化させたのが山本健吉であった、と坪内氏はいう。
(源義が日本文化の継承・発信を信じていたのは確かだが、俳句が核であったかどうかは私自身はよくわからない。私などからすると角川源義は軍記研究、民俗研究の大家でもあるからだが、少なくとも山本健吉との協力関係が大きかったことはよくわかる。)

坪内氏は最後に、『俳句』昭和278月号における草田男との対談での山本健吉の発言を引いて、それが「「俳句」を創刊した時代においては、俳句を俳壇の外へ開く、もっとも刺激的な見解だった」と評価している。
僕はね、大きな点からいふと、俳句作家といふものは独白の世界、モノローグの世界へ入り込んでしまつた、根源俳句は、ことに甚だしいと思ひますけれども、それはやはり危険を感じますね。一人合点にいつちやふんだ。

 

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