第7章 座談会 昭和二十年代をめぐって [全員+ゲスト]
第7章は、5章までの連載をふり返る全員参加の座談会。ゲスト、上田五千石氏の紹介のあと、「第1章 第二芸術論の時代」をめぐる議論が展開される。川名大氏の議論が興味深いので焦点をあてたい。
川名氏は、自己表現を打ち出そうとした近代的方向も反近代の方向も受け入れ、広い視野で多様な句を見たい、といい、その点では坪内氏、仁平氏とも違わないだろう、と言っている。しかし異なるのは、
坪内さんが俳句形式を短小で片言の形式ととらえるのに対して、私はアンビバレンツな重層形式だと考えている所です。脆弱で片言なんだけれど、季語・切字・構造などの支えによって、いわば宇宙的に飛翔できるしぶとい形式だと思います。
「俳句を作ることは、菊作りや盆栽に夢中になることと同じでよい」という坪内さんの強調点、私もそこまでは賛成です。でも、菊作りなら菊作りのマニア、菊作りの専門家のレベルで捉えるのか、ちょっと庭に菊を植えてみるというレベルで捉えるのかで、だいぶ違ってくると思うのです。・・・言葉を換えると、自己表現あるいは自我の表現を俳句に託せるのかどうか。
これに対して坪内氏は、
近代のある時期の俳句観として、俳句は自己表現だと考えた時期があるわけです。でも五七五で完全に自己表現ができるという考え方はちょっとまずいのではないか。・・・完全な自己表現ができないというところから俳句は出発したのではないか、と述べ、川名氏の俳句観を「近代的」と切り捨てている。
坪内氏はまた、俳句は未完成であるがゆえに時代の影響を受けやすく、流行に流されやすい。しかし、戦後の虚子は世の流れから降りて、新局面を開く活力を失っていた。戦後は時代と関係なく自分の好きなように句を作っているようだ、と発言している。
これについてはもちろん本井氏から反論があり、戦後の虚子にも<去年今年貫く棒の如きもの><暁烏文庫内灘秋の風>などの句があり、決して活力がないわけでも、時代から離れているわけでもない、としている。
本井氏はまた、川名氏に対しては次のように疑問を投げかける。
川名さんは「自我を託する」という言葉をお遣いになるでしょう。俳句と自我とはちょっと隙間があるものだと私は思うんです。俳句とは自我を託しきれないものだという気持ち。そこのところが、これからも常に川名さんとは事あるたびにズレちゃうかなという気が先程もしたんです。川名氏は、虚子は自我を消して零にしていく方向だが、自我を託す方向でも佳い句はたくさんある、と強調している。
このあたりがメンバー同士で対立を生む論点のようだ。
坪内、本井、仁平、の三氏はそれぞれ立場は違うが、自我を託す「近代」的方向性でないところに「俳句」を位置づける。メンバーでは川名氏だけが「近代」派、の位置づけ。
川名氏に対しては「第2章 雑誌『現代俳句』と新俳壇」についても、俳句の戦争責任に関する疑問が提起されている。仁平氏は、川名氏がある海軍少佐の俳句を「国策順応」時代の作品と捉えていることについて、
たとえば、あるイデオローグとして戦争に人々を駆り立てたというのであれば戦争責任があるけれども、俳句を作っている人にしか目にとまらないようなところでコツコツと書いていた俳句でしょう。こういう俳句も戦争協力というなら、何も言わないで黙っていた大衆も、黙っていたことによって戦争協力、国民全員に戦争協力という問題が発生してしまう。と批判する。
坪内氏がいうように俳句が時代と密着しているとすれば、戦争の時代は戦争に関して俳句が作られるのが自然である。一方、川名氏は「時代の本質や趨勢に対して批判的な眼を持ちえたかどうか」という観点から、白泉や新興俳句の若手たちを重視する。
白泉らの表現が戦争批判という形で先鋭化し、力をもったのは事実だろう。しかし、時代の趨勢に対して批判的な作品だけが表現史を更新するわけではない。
川名氏は、戦後の「新俳壇」、つまり現代俳句協会や新俳句人連盟が、戦前の虚子、秋桜子ら文学報国会メンバーに対して復権する形で団結したことを重視しているのだが、これは上田五千石氏のいうとおり「それは文学上の問題でなくて俳壇の政治」である。
むしろ表現史の観点からいえば仁平氏の次の発言、
俳句という形式は、まず自分自身で誰でも持っている通俗さを受け入れるそして、それを見つめて、そこから、ちょっと大げさな言い方ですけれども、通俗でないものへ突き抜けていく。それが俳人の表現行為だなという気がしているんです。のほうが説得的といえる。
この発言自体には川名氏も同意しているが、つまり、「国策順応」俳句が批判されるとすれば、戦争責任ではなく、戦争時代における通俗的、類型的表現であることによって評価できないのだ。
その意味では、どんなに反体制であっても現代の「震災俳句」や「反原発俳句」のほとんどが見るに堪えないことと、問題は共有される。これらは個人の「想い(感想)」として残されることはあっても、表現史に評価されるべきものではない。
問題は「俳句」における「大衆性」をどう捉えるか、ということで行きつ戻りつする。
坪内 日本文学報国会の俳人部会が非常に増えたというのは、俳句のある種の体質で、今でもそうですね。俳人協会や現代俳句協会は、ほかの文芸団体と比べても人数が格段に多い。他のジャンルから見ると変だなと思うでしょうし、あまり大したことではないかもしれない(笑)
大串 大したことではないのですが、特徴ではあるんですね。・・・俳句は現代詩、短歌にある知性といっていいのかどうかわからないけれども、そういうものがない大きな裾野を持っている。それが特徴ですよ。第二芸術論以後の「戦後俳句」では、大衆性を否定した方向に大きく動いたが、その後五十年を経て、むしろ大衆性、通俗性を認めたうえでどう付加するか、という視点が中心になってきているようだ。
単純な世代論ではくくれないが、川名氏から坪内・仁平氏へ、という評論家の世代交代を見ていると、そのまま俳句界の中心軸の推移を見ることができるように思う。
漠然とわかっているつもりでも、そうした流れを時代に即して見直すことができるのが、通史的研究の重要性である。
座談会では「青春俳句」や「療養俳句」についても意見が述べられているが、煩雑なので割愛する。
最後に、上田五千石氏の締めくくりの一言を引いておく。
作り手に句は下手でもいいから、自分はこういうところでやっているんだという歴史の自覚がほしいのですが、それがないんですね。これからこうした研究を積み重ねていけば、そういう歴史的認識ができてくると思うな。「作り手に句は下手でもいいから」。
うん。大事なことなので二度言いました。
こういうことを言われると、私のような人間も立つ瀬があるというものだ。
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