第3章 批評の射程―山本健吉とその周辺― [仁平勝]
俳句の世界では批評というものが育たなかった。すぐれた批評の文章がときに書かれなかったわけではない。のちに述べるように、戦後まもない昭和二十年代前半には、本格的な俳句の批評がいくつか現れている。けれども結果的に、俳壇(つまり俳人達の共同社会)の大聖ハそれにほとんど影響を受けなかった。というより俳壇では、そもそも批評が必要とされなかったのである。仁平氏は、第二芸術論がもたらした、根源俳句や社会性俳句をめぐる論議は「どれも俳句の本質とは別のところで、そのつど俳句のイデオロギーを生産してきたにすぎない」と批判する。「写生派でなければ前衛派」といった実作を支援する「党派の理論」は批評ではない、と断言する仁平氏は、「党派性の外側」にあった批評として何人かの作業を紹介している。
皮肉なことに、批評に不干渉である俳壇がもっとも影響を受けたのは、桑原武夫の「第二芸術―現代俳句について」という、当時一流の近代主義者が書いた二流の俳句批評であった。そしてこの事件は、俳壇という前近代的な共同体が、いかに近代主義の外圧に弱いかを露呈させたのである。この弱さは、すなわち批評の貧困に起因している。
ここで紹介されるのは、山本健吉の「挨拶と滑稽」(1946)、頴原退蔵「季の問題」(1946)、井本農一「俳句本質論」(1950)、栗山理一「俳句本質論の批判」(不明)、神田秀夫「抒情管見」(1949)などである。
(※ちなみに夏石番矢編『「俳句」百年の問い』に収載されているのは井本論のみ。山本健吉は「純粋俳句」が収載されている。夏石著は優れた本だが、類書は少なく、優れた俳句批評の多くは読まれていない。新たに「俳句批評」アンソロジーが出ないものか)
あげられた批評家は、多くが古典国文学研究を専門としており、山本をはじめ「俳句の本質」をそのまま当人の考える「俳諧の本質」と捉えて論じていた。
仁平氏は、国文学者たちの説が「伝統」を相対化したことを認めつつ、なぜ俳句形式が「俳諧の本質」を保持し発揮しえたか、を論じていないと批判する。
そのうえで山本と神田のふたりを「批評家」として特筆し、「切字」への着目を通して、俳句という定型を構成する言葉のレベルまで解体した(「定型論」にまで射程を広げた)ことで、50年後(企画連載時)まで有効な批評である、と評価している。
この場所ではじめて俳句は、普遍的な批評の言葉を手に入れることができる。私たちの俳句批評は、いまだにここが出発点なのである。*
第4章 青春と俳句 [川名大]
はじめに川名氏による「青春俳句」の定義を見てみよう。
「青春と俳句」という主題は、いつの時代にも該当する普遍的な主題である。少し強引な言い方をすれば、青春とは鋭敏な感覚と清新な抒情の別名であり、とりわけ詩歌のジャンルにおいては才能の別名でもある。だから酷な言い方をすれば、青春期において、不幸にも鋭敏な感覚や清新な抒情に恵まれなかった人物は、最初から詩人としての資質に恵まれなかったのだ、と我が身の不幸を覚悟しておいたほうがよいのである。川名氏は、肉体の実年齢と作品とはパラレルでない、としながら「青年らしい鋭敏な感性や抒情」に着目する。以下、「各時代を代表するような際だった青春俳句を点綴」する。
川名氏が最初に言及するのは飯田龍太である。
龍太は周知の通り、病のため兵役を免れ山梨で土地を継いだ。川名氏は、「鋭敏な龍太の心中に、死に遅れた青年特有の一種の負い目と、生きて父祖の血を継がねばならない思いとが激しく渦巻いていたに違いない」として、第一句集『百戸の谺』(S29)を「昭和二十年の俳句の一領域を代表する典型的な青春俳句」として紹介する。
黒揚羽九月の樹間透きとほり
春雷の闇より椎のたちさわぐ
いきいきと三月生る雲の奥
同じく戦中世代としては高柳重信、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房、林田紀音夫、、鈴木しづ子らが紹介される。
明日は
胸に咲く
血の華の
よひどれし
蕾かな 高柳重信
暗闇に眼玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男
木琴に日が射しをりて敲くなり 林田紀音夫
体内に君が血走る正座に堪ふ 鈴木しづ子
つづく昭和世代の句として、東北出身の十代が集まり同時期に活動していた「牧羊神」、「青年俳句」の二誌がとりあげられるが、川名氏によれば「結局、この二誌は寺山修司という青春俳句のヒーローを生み出すために存在した」のだという。
結社育ちの青春俳句として特筆されるのは鷹羽狩行『誕生』(S40)である。
新妻の靴ずれ花野来しのみに
スケートの濡れ刃携え人妻よ
みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ
*
第5章 時代の証言―療養俳句について― [大串章]
療養俳句というと私は石田波郷くらいしか思いつかないが、昭和二十年~三十年代には、大きな存在感を持っていたようである。
当時、結核療養所やハンセン病療養所、自宅療養の患者たちには、短歌、俳句が積極的に奨励されていたようだ。療養俳句の金字塔は波郷『胸形変』(S25)だが、先蹤として石橋秀野(S22年没)、石橋辰之助(S23年没)、また「長らく病床にあって俳句活動に専念してきた山口誓子や日野草城」などが療養俳人たちの規範的存在だった、という。
国立療養所栗生楽泉園(群馬県)では、昭和二十年代半ばから大野林火を指導者に迎えて「高原俳句会」が結成され、村越化石らが育った。また昭和30年には合同句集『火山翳』を刊行、その後も『雪割』(S40)、『一代畑』(S51)などを刊行していった。
大串氏の引く斎藤正二の文章によれば、戦後多くの病人に短歌・俳句が愛好されたのは、①病者の端的な感情表現として短詩型が親しまれたこと、②句会や歌会、雑誌がひろく普及したこと、③戦後、療養患者の社会的地位が向上されたこと、などとともに、
④ あの忌はしい戦争苦を庶民として身を以て嘗め味はつた『最底辺における人間体験』を通して発見された人間的自覚を軸として、病臥を強ひられる自己の真実及び自己を繞る諸諸の実体物の真実を追求する態度がひとりびとりの作者に明確に植ゑ付けられたこと
という理由があるという。
ここで明らかなとおり、またのちに大串氏も伊藤整の文「療養者の歌と私小説」(「新潮」S30.02)を引きながら考察するとおり、療養短歌、療養俳句が注目されたのは、作者の「人間体験」によってであり、短詩型における「私小説」として評価されたのであった。
昭和30年1月、石田波郷が『定本石田波郷集』によって第六回読売文学賞を受賞。
昭和34年には「現代俳句協会賞」に目迫秩父、「角川俳句賞」に村越化石が選ばれ、ともに療養俳人の受賞として注目を集めた。
木兎鳴くや力尽して粥食へば 目迫秩父
寒星をかぶり死すまで麻痺の身ぞ 村越化石
こうした療養俳句の隆盛を反映し、「俳句」昭和33年度年鑑に「療養俳句」の項目が登場する(第一回執筆者は赤城さかえ)。その後、昭和三十年代後半には医学・治療の進歩にともなって療養俳句は病苦を対象とするものから、療養生活や肉親友人にまつわるものへと変化していったようである。
たとえばこれらの作品は、私たちの戦後俳句史に正しく書きとめられなければならない。庶民の文学である俳句の歴史は、<才能>や<強者>の側からのみ書かれてはならない。・・・身近に<死>を見つめながら、生きがたい時代を生き抜いてきた、真剣なまなざしがこれらの作品にはある。それは、時代の証言とも言うべき重さをもっている。*
第6章 性と風俗 [本井英]
本井氏は、「性」と「風俗」とは本来独立した単語であるが、並べて書き表すと具体的な「ある世界」を指すことになる、としながら、戦後の「性と風俗」を、「敗戦国家による戦勝国将兵のための売春施設の提供」であるRAA(レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション)設立から始まる、とする。
そしてまず取り上げるべき作家として、鈴木しず子の句業を紹介している。
恋情や冬甘藍の重み掌に
ダンサーになろか凍夜の駅間歩く
実石榴のかつと割れたる情痴かな
黒人と踊る手さきやさくら散る
本井氏の紹介文ではだいたいの作句期間が示されているが具体的な年次は不明。
本井氏は、しづ子の句と、近世遊郭の遊女の俳句(<夕立やいとしい時と憎い時><ひとり寝や伽してくれる磯千鳥>など)とを比較しつつ、しづ子の句に見られる「わが肉体と精神への凝視」は、戦後「大いなる価値観の混乱を経て、初めて実現された世界」と述べている。
本井氏は続いて桂信子の句業を紹介し、寡婦となった信子が「女身」を怯むことなく詠んでいることなどを、同時期に坂口安吾が著した『堕落論』的転換、「健康的な日本人としての価値観の再発見」であった、と記している。
さらに本井氏は本稿のまとめで、憲法上で女性の地位が認められることになったことと、社会の意識が変化したかどうかは別である、といい、一世代のサイクルが回転した五十年後の「今日」、やっと社会通念として定着してきたのではないか、そのなかで「俳句」がどうあるべきか、と問題提起している。
一方、「男達の場合」は、
得しは銭・朝の女体へ梅雨あらし 幡谷東吾
夜の宿女外套を脱がずわれも 鈴木六林男
嘆くをやめかの裸のレヴューなど見るとせむ 安住敦
など、「俳句研究」誌上に載った作品が示される。(「得しは銭・~」の句についてはルポルタージュになってしまって、こんな事なら話題にしなくても、と評する)
現在でも、渋谷や新宿のちまたにはさまざまなる「風俗」が咲き乱れている。しかし、まさに今日のそれらを点景・背景として詠んだ俳句にあまり出合わないように感じるが、実際はどうなのであろうか。
*
以上、第6章まで。
仁平氏の指摘する「批評の貧困」は、現状でも大きな問題だろう。
仁平氏の「党派の理論」とは、「実作論」のことだと思う。実作者としての自分がどうありたいか、が先行し、客観的に「俳句」を論じることができない、という論は、これまでに私も目にしてきた。
しかし近年はとみに「党派の理論」がふるわなくなり、良くも悪くもフラットな批評空間が生まれつつある。山本健吉の「挨拶と滑稽」「時間性の抹殺」などの提言は、いまこそ改めて受け止められるべきかもしれない。千野帽子氏が声高に繰り返す「俳句は速い」「俳句はゲーム」といったタームも、本来はここに胚胎しているはず。
また、以前行われた「俳句」の特集「若手俳人の季語意識」において鴇田智哉氏が、有季より定型が俳句にとって大切だと認識していたこと、なども、現代の若手作家の認識として想起して良いだろう。
川名氏の「青春俳句」では、飯田龍太、高柳重信、寺山修司といった基準値が示され、「才能」の名のもとにヒエラルキーが作り上げられている点が、私から見るととても窮屈である。
一方、大串氏は療養俳句を、「才能」とは別の「時代の証言」として評価する。
意図していたのかどうか、ここに図らずも川名氏の(強固な)文学観と、ほかのメンバーとの違いが出ているようだ。
俳句には多かれ少なかれ、表現史を更新する「文学」としての意識と、それとは別の、日々を生きる糧、個人的な楽しみとしての側面があり、相互は緩やかにつながって「俳句」ジャンルを形成している。総体を見るか、一部を強調するかで、印象はずいぶん違うことになるだろう。
これについては次回の座談会で明らかになる。
「性と風俗」に関しては、近年では北大路翼氏の(わかりやすい)試みがあるが、大きなムーブメントになったとはいえまい。むしろその面で注目されたのは御中虫氏であり、現在でも肉体に関する表現については、女性作家の優位を認めざるを得ないようだ。
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