今回のKuru-Coleは、個人のBlog企画ということで作者にも鑑賞者にもまったく無償でご協力いただいております。
そのため、特に〆切を設けることなく、出せるときに原稿返してください、という約束で
お願いしておりました。そうなると、どの原稿も帰ってこない時期というのが、やっぱりあるわけですね(^^;。
ちょっと予定していたよりも早くストックが尽きたので、ここでお休みし、またストックがたまった段階で公開したいと思います。
それまでの埋め草に、なるかどうかはわかりませんが、以前、週刊俳句 Haiku Weekly: 久留島元 五十音図(抄)として発表した多行形式連作の完全版を公開いたします。
曾呂利亭雑記: 五十音図(全)/1
曾呂利亭雑記: 五十音図(全)/2
「週刊俳句」の投稿が2010年11月なので、実に6年ごし。(怠惰なもんだ)
一部は新人賞のようなものに応募したこともあるのだけれど、箸にも棒にもかからなかったのでお蔵入り状態でした。
あまり公にしたことがない、というかその機会がないのでしてませんが、私の作句テーマのなかに「気を張らない前衛」というのがあります。
今回のKuru-Coleは、私自身が読者として好きな作家をお願いしているので、必ずしも私自身の方針と重なる作家を選んでいるわけではありません。
表w現の多様性こそ現代俳句の要だと信じているので、むしろ私と重なる作家より、私と違っているのにおもしろい作家、というのにスポットをあてたい。
と、これはプッシュアップする側、読者の意見。
さいきん、ある友人から「山本健吉気取りか!」と怒られました。(脚色有)
作家なら自分の作品でもっと表現しろ、と。他人のプッシュしてる場合か、と。
うん。
まあね。
ぶっちゃけ、俺が好きな人ってみんな俺よりすごいひとばっかりなんだけどね。
まあ、そうは言っても、たしかに「多様性」をプッシュするばかりでなく、お前のやりたい俳句はどこにあるのか、という問いは、当然ありえるし、作家を名乗るなら答えなくてはいけないと思いました。
そこで、脱力系前衛俳句。
かつて、前衛といわれた表現技法の多くは、俳句形式の先端を行く、という高らかな自負と矜持で満ちていました。その緊張感こそが魅力であったわけですが、同時に硬直化した表現は、豊穣なはずの表現域をせばめ、みずからを追い込んでしまった、ように思えます。
その「あだ花」的な美しさもまた、「前衛的」なのかもしれません。
とはいうものの。
その前衛俳句が拓いた表現域を、後世のわれわれがただ眺めているだけでは、あまりにもったいないではないですか。
伝統も前衛もない、といわれる今だからこそ、やわらかな前衛表現というものを探れないか。
ある人にとってそれは、前衛ではない、形骸化した、いわばゾンビのようなものかもしれません。
それでもかまわない。
闘争を嫌い、先人の築いた幸福を甘受し、突出した自我の表出を忌避しながら、それでも「表現」することを選んだ、先行する世代には時に「草食」にも「ゾンビ」にも見える。だからこそ自由に、先行世代ができなかった表現域までゆるゆるのびのび広がることが出来る。
それが「脱力系前衛」というスタイルだ、と、自句自壊的に申しあげたいと思います。
本作にかかわる批評、鑑賞をコメント欄などにおよせいただければ、幸いに存じます。
亭主拝。
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