外山一機
一九九〇年に『漫画アクション』で連載が開始された「クレヨンしんちゃん」は、幼稚園児の「野原しんのすけ」が主人公のギャグ漫画である。しんのすけの所属する野原家は父の「ひろし」、母の「みさえ」、妹の「ひまわり」を含めた四人で構成されている。父親のひろしは三五歳で、霞が関に本社のある商社に勤め、春日部に庭付きの一戸建てを持つ男性である。妻のみさえは専業主婦であり、パートに出ている様子もないから、ひろしは自分一人の給料で四人家族を養っていることになる。
連載の始まった当時を基準に考えると、ひろしは一九五五年生まれで、一九七五年入社ということになる。野原家が東武伊勢崎線沿線の春日部に居を構えたのは、当時がバブル期で土地の地価が高騰しており、東京都から埼玉をはじめとする周辺の郊外へと人口が流出していた時代であったことを考えると、ごく普通のサラリーマンの選択であったろう。ようするに、ひろしは一九九〇年代における、とりたてて可も不可もない父親としての役割を演じている人物ということになる。
ところが、「クレヨンしんちゃん」は(漫画の連載はすでに終了しているものの)アニメが現在も継続しており、ひろしは現在においても三五歳ということになっている。そこで、現在を基準にあらためて考えてみると、ひろしは一九八一年生まれ、二〇〇一年入社ということになる。とすれば、一家四人を自分の給料のみで養い、いくら地価が下がったとはいえ埼玉に一戸建てを持ち、霞が関の商社マンである三五歳の男性、という設定の持つ意味合いはずいぶん変わってくるように思う。ひろしの経済力は「可もなく不可もなく」どころか、いまや羨望の対象となりうるだろう。
この二〇数年間で日本の若者を取り巻く環境は大きく変化した。その変化を一九八五年生まれの山口優夢はその第一句集『残像』(邑書林、二〇一一)で次のように記している。
僕の句は故郷のどっしりとした景色も、悲惨な戦争体験も、伝統を重んじる姿勢も、芸術家の破綻した私生活もない。ただ平成不況と言われるどうにも曇り空が続くような世相の中で、特別貧しくもなく豊かでもなく、ぬくぬくと生きていたその景色があるだけだ。そんな僕の軽い言葉にどんな意味があるのか。
でも僕は、そのときそのときで何かから逃げずに戦ってきた、戦って句を作ってきたと思う。それは、何かをなつかしむような句を作ってきたのではないということだ。その自負があるから、社会に出る前の自分の句をこうして皆様の前にさらしておこうと思う。(「あとがき」)
山口は「平成不況と言われるどうにも曇り空が続くような世相」を意識しながら、自らの言葉を「軽い言葉」だといい、しかし、それでも「そのときそのときで何かから逃げずに戦ってきた」という矜持を語っている。山口の戦いぶりは、だから、とても堂々としている。
戦争の次は花見のニュースなり
野遊びのつづきのやうに結婚す
ビルは更地に更地はビルに白日傘
ちちははの喧嘩を聞かむきりぎりす
卒業や二人で運ぶ洗濯機
わが影にアイスクリームこぼれをり
山口の戦いは不思議なくらいスマートな句として結実していく。どうして山口の句はこれほど破綻がないのだろう。どうしてみっともなくないのだろう。『残像』は戦いの痕跡をとどめているのかもしれないが、そこには敗色が決定的に欠けている。とはいえ、敗色のなかで俳句を書き続けることは、態度としても方法としてもいかにも古臭く、また困難をともなう仕事だ。実際、そのような態度や方法で書き続けた林田紀音夫が数十年前に作家としての行き詰まりを見せ、長い後退戦の後で没していったのを僕たちは知っている。だから、いまさらそんな負け戦を好むのはよほど稀有な書き手であるにちがいない。
しかしそうした稀有な書き手の一人に西川火尖がいる。
このブログも思えば十年続いているわけで、
先日8年前に作った四S占いが再び日の目をみることがあった
そういえば、「クリスマスは俳句でキメるをやってみた」を書いたのもこのころだし
俳句漫画に手を出したのもこのころだ。
このころは、無職で、定職に就くことばかりに焦っていて、
もはや何でもいいから、仕事を探していた時期だった。
おりしもリーマンショック後の不景気で、第二新卒だった火尖には
どこも雇ってくれる会社なんかなかった。
採用担当の人に、「5年後君の同世代の人間はポツポツ出世しだして、
部下を持ったり、車や家を買ったりするものもでるかもしれない。
一方君のような人間はどんどん落ちぶれ碌な仕事にはつけないだろうね」と言われて、
そうだろうなぁと納得してしまったりしていた。
今や、その彼女の言った五年後はとうに過ぎたが、半分あたり、半分はずれの生活をしている。
結局、その後彼女の予言通り、碌な仕事にはつけなかった。
現状を脱しようと精一杯足掻いた結果臨んだ公務員試験や大学職員試験は全敗。
横国大の最終面接と八王子市の三次面接は、今も悔やまれるほど酷い失敗をした。
そこから見切りをつけて、今の職場に移ったのが、果たして良い結果だったのか
少なくとも、子供もできて、ひとまず住む場所にも困ってはいないので、
あのころ定職につけなくて、焦っていた自分には、報いることができたのではないかと思う。
しかし、無職のころのブログの記事は今読んで面白いものが多く、
どれも今の自分には書けそうにない。敗色の豊かな時代だった。
一九八四年生まれの西川は、かつての林田のように戦後の日本社会のさまざまな風圧のなかに身を置きながら希望や絶望を詠うわけではない。もっとささやかで、しかしたしかにその身に受けている幸や不幸を、ひとつひとつ掬い上げるようにして詠うのである。だからそれらは決して派手ではない。しかしそれらは「敗色の豊かさ」を僕たちに教えてくれる。
真白なテキストエディタ耕しぬ
ぐしぐしと汗拭きをれば呼ばれたり
子の問に何度も虹と答へけり
螢袋つひに誰にも祈らせず
凶年や高い高いと児をあやし
冬近し無料情報誌の黄色
ボロ市や髪を離れぬ静電気
暖房車不可避の朝を走りけり
たとえば、虹を詠うときでさえ西川は「子の問に何度も虹と答へけり」というように、虹をまなざすことがない。そのまなざしは頭上ではなく、目の前にいる「子」へと―あるいは地上へと向けられている。こうした西川のありようは、どこか、本島高弓のそれを想起させる。終戦間もない一九四七年に本島は息子と同じ名の句集『幸矢』(東京太陽系社、一九五〇)を上梓したが、そこには次のような句が見られる。
山巓へ手をふればわが手の赤さ
焼原や虹にもつれる無数の手
消える虹わたしはすべもなく残る
山巓へ手をふる側にとどまった本島とはまた、虹をふり仰ぎながらも焼原を書きとめずにはいられない者の謂でもあった。本島のまなざしはどこまでも地上にある。「消える虹」の後に「すべもなく残る」「わたし」を描いたのも、その感傷的なポーズに本島の志があるのではなく、「すべもなく残る」と書くことで、そのまま、「すべもなく残る」「わたし」のその後を引き受けていくことにこそ、本島の作家としての矜持があったように思う。高柳重信による姉妹句集『蕗子』(東京太陽系社、一九五〇)に「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」があるとすれば、『幸矢』には「トロを押し トロを押しゆく とほい海」がある。高柳が書くことによって海に出会えたのに対し、本島はまさに書くことによって海にたどり着けない自らを引き受けていったのである。
とはいえ、西川の句からは、一見すると林田や本島ほどの悲惨さは見られない。むしろ、そこにあるのはあたたかなユーモアであり、幸せのありようである。この違いは、あるいは、戦中・戦後の言語空間にあって俳句形式と向き合っていた本島の句に漂う緊張感と、西川の句の、良かれ悪しかれ俳句形式に依拠した自らの表現行為の倫理を疑うことのないようなふてぶてしい趣の違いに由来するものなのかもしれないが、ここでは別の観点から考えてみたい。
スパゲッティメジャー必ず小鳥来る
スパゲッティメジャーを必要とする生活とは、決して粗雑に毎日を送るもののそれではあるまい。この句からは、ささやかながらも丁寧に毎日を過ごすために台所に立つ生活者の後姿がほの見えてくる。そして、スパゲッティメジャーで計量するその姿が、どこか祈る者のそれに似ているようにさえ見えるのは、この句に込められた「必ず小鳥来る」という言葉の強度ゆえであろう。ほとんど何の根拠もないこの断定は、それゆえに切実なものとして僕らに迫ってくる。
繰り返し繰り返し冬の川渡る
「繰り返し」という、それ自体リフレインを表す言葉の連続からなるこの句は、たんなる徒労感の表現ではあるまい。冬の川を渡っては帰り、再び渡っては帰り来るという、帰る場所のある人間の強さをこの句に読むことはできないだろうか。さらにいえば、帰る場所があるゆえに、この繰り返しを永久に維持しようと願う人間の切ない姿を見ることはできないだろうか。本島高弓に「トロを押し トロを押しゆく とほい海」の一句があることはすでに述べた。本島は果てしなく前進する人間の悲哀と希望とを詠ったが、はたして僕らはこのような句で救われるだろうか。僕らにとってよりリアルなこととは、前進する悲しさやさびしさなどではない。あるいはまた、前進する喜びでもない。僕らはもっと緩慢で不可視的な―それゆえ周到な―絶望のなかで、それでもそれなりに生きている。たとえば僕は昨日、座り心地の悪い椅子の並ぶ安いコーヒーショップで、友人と他愛もない話を一時間ほどして別れた。これはたしかに昨日の僕の記憶だが、きっと今日の僕だってこんなものだろうし、明日の僕もきっとそうだろう。だから、この緩慢な繰り返しのなかで生きる意志こそ、僕らの切実に希求するものなのではあるまいか。
ただ、それゆえに、「冬の川」の句のもっている詩としての最も上質な部分は、あと十年後にはもしかしたらわからなくなってしまう質のものなのかもしれない。たとえば僕はこの川から東京と神奈川の境を流れる川を想起するが、とすれば、この句は郊外に居を構えて東京と神奈川を行き来する人間の、それはそれで幸福なありようを描いているように見える。西川の身の上の不運は、偶然にも、バブル崩壊後の日本社会の「絶望の国の幸福な若者たち」のリアリティをこんなふうに俳句で詠うことのできる稀有な存在としての「西川火尖」を育んだのではあるまいか。
このように日本社会に生きる困難を一身に引き受けてしまった書き手に、先述の林田紀音夫がいるが、林田はきっとこんなふうに人間の生をフラットに詠むことはなかっただろう。その意味でも西川の新しさは際立っている。また、少し視点を変えるならば、かつて加藤郁乎は「冬の波冬の波止場に来て返す」と詠んだが、そのように詠んだ加藤は、決して西川の「冬の川」のような句を詠むことのできない書き手であったろう。それは、当時の加藤が現在の日本社会のリアリティを知るはずもなかったということ、そして加藤の書き手としての志向が別の高みをまなざしていたということにその要因があるように思われる。逆に言えば、西川の「冬の川」の句は加藤のこの高名句の射程距離がどのようなものであるのかを示唆するものではなかろうか。
ところで、高野ムツオが震災詠の作家ではないのと同様、社会詠に「西川火尖」の本質を見るのはやや違うような気もする。西川の句の魅力はこれだけではない。
端折りつつ話してみても蝶狂ふ
まだ朝の蟻を摘んでをりたるに
すずなすずしろお目当ては男の子
西川の句にはどこか不思議な雰囲気の漂うことがある。しかし、一見不思議なこれらの句も、その実どこか悲しみを帯びている。僕は僕自身を語ることで「僕」を形づくるが、丁寧に話しても端折っても蝶の狂う「僕」の生とはなんとももどかしい。あるいはまた、蟻を摘む者がせきたてられるような朝のなんと不条理なことか。そして「すずなすずしろ」と歌うように男の子へと駆けていく足音は、軽やかな破滅の足音を暗示してもいよう。
いずれにせよ、これらの句から浮かびあがるのは、世界とうまくコネクトできない人間の姿である。それはときにコミカルに、ときにシリアスに描出される。
昼寝せむ丈夫な川を思ひつつ
鶏頭花すぐに答が出て迷ふ
月光に骨の掠れるまで棲まふ
綿虫はイヤホンの音漏れが好き
枯園の四隅投光器が定む
そうした西川の句のなかでも次の二句はとりわけ幸せそうな表情をしている。
花時の水をくぐらす茹卵
花散らしゆく胎教の合唱団
ピクニックに持参する茹卵だろうか。手を切るような冷たさもおさまり、やや温んだ花時の水のなかで、卵の白い肌はいかにも美しく、またその殻を剥く指もまたいかにも美しい。そしてまた、「花散らしゆく」の句において詠われた破れかぶれの幸福の、なんと美しいことだろう。「冬の川」を「繰り返し繰り返し」渡る僕たちの生を言祝ぐ詩とは、たとえばこんなたたずまいをしているものなのではあるまいか。
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