まずは「序章 戦後五十年の俳句の歴史」と題された座談会を見ていこう。
メンバーは、先に掲げたとおり、大串章、川名大、本井英、仁平勝、坪内稔典(司会)。
「現代俳句」という枠組みについて、司会の坪内氏は次のように言う。
戦後の俳句を振り返るときは普通、「戦後俳句」と言っていますが、われわれはその言い方をとらないで「現代俳句五十年」という、あまり耳慣れない言い方をしてみました。・・・ぼくは、現代俳句五十年というのは端的には「第二芸術」論以後だと思っています。
詳細は「第一章 第二芸術論の時代」(坪内)に譲られるが、坪内氏は桑原「第二芸術論」のような、日本の詩型に対する過剰な卑下と外国文化へのあこがれが、明治期にも共通する近代の画期に登場する言説であることに注目し、「第二芸術論」そのものというより「第二芸術論」の時代以後をどう生きたか、を、子規以降の「近代俳句」と比較する形で「現代俳句」として捉えようとしている。
メンバー最年長、大串章氏(昭和12年生)は、戦中の物資不足のなか多くの俳誌が統合されて消滅したが、敗戦を機に次々と復刊、創刊されたことに注目する。
「ホトトギス」が20年10月、「馬酔木」が12月に復刊、翌21年には「鶴」「寒雷」「雲母」「かつらぎ」が復刊、新しい俳誌も「万緑」「太陽系」「濱」「笛」「風」「春燈」が創刊されるなど、媒体の面から昭和20年を現代俳句の画期と見なすのである。
そのうえで大串氏は座談会当時を「現代俳句が一周した感じ」という。
それで現代俳句の起点を一九四五年に置くことは認められるとして、では一周したという感じはどういうことか。・・・何か混沌とした、目標とか指針が定めにくいような価値観の揺れといったものが、いま起こっているのではないか。そういう意味でいえば、去年亡くなった人間探求派の加藤楸邨、今年の三月逝去の山口誓子は、一周目の最終のランナーではなかったか。
そういえば今年は八田木枯(87)、真鍋呉夫(92)、加藤郁乎(83)、今井杏太郎(84)といった人々が相次いで亡くなった。(括弧内は享年)
真鍋氏は上の世代だが、阿部完市が2009年に81歳で逝去したことを思い起こすと、「昭和ひとけた世代」の時代が終わりつつあることを感じずにはいられない。
やや先走るが、この連載の第16章は「昭和ひとけた世代」(大串)である。
「現代俳句」の起点として楸邨、誓子、草田男がおり、中核として金子兜太、森澄雄、飯田龍太、三橋敏雄、高柳重信らがおり、彼らを「現代俳句」の中心的指導者とするなら、「昭和ひとけた世代」は、まさに「現代俳句」の成果というべきであろう。
16年前の連載は「現代俳句」の最終ランナーの死、という時期に始まったのだが、いま現在の我々は「現代俳句」が終わりつつある時代に俳句に関わっているのだ、という言い方をしてもいいだろう。
座談会に戻る。
川名大氏(昭和14年生)は、「昭和二十年以後の俳句史はまとまった著書が出ていない」と評論史の貧しさを指摘する。
川名氏は周知のごとく『現代俳句』(ちくま学芸文庫)など多くの著書を持つ評論家。山本健吉以後の俳句評論をリードした一人だろう。「表現史」という視点は、私自身も非常に勉強になった。
しかし、今『現代俳句』を読み直してみると、彼の「表現史」は、あまりに評論家的、印象論的である。たとえば高柳重信の多行形式を語るのに、「メタファーを用いて仮構の中に自己を韜晦させる」方法と評したり、「多行に、視覚的な表記上の配置(カリグラム)を加え」たと述べたり、内的要因を探るばかりで、重信がどうやって多行形式を獲得したのかはわからないのだ。(重信のカリグラムが1950年代の詩壇の動向と共通することは神野紗希「まだ見ぬ俳句へ」『ユリイカ』2011.10に言及がある)
川名氏は「第二芸術論」について、当時、思想や人間性について扱っていた新興俳句、人間探求派を視野に入れておらず、「スタート時点で俳句のそこまでの表現史をまったくとらえていなかった」点を批判し、次のように述べる。
(新興俳句の流れの人たちは)それでは何か新しいものを出していったかというと、戦前からの流れを受け継いで発展させていく。それが戦後俳句の主流だったと思います。いま、ふり返って、「第二芸術」論の最大の力は、俳人や俳句に文学としての負い目を追わせたことだと思います。これには、(第二芸術論的視座に立つ)坪内氏から揶揄まじりの批判があって、
いまのは、川名さんの俳句への愛情に富んだ発現だと思うのですが(笑)、ぼくは、桑原さんが俳句史への目配り無く玉石混淆で作品を例示したのはある意味で当然であって、それに耐えない俳句が本当は問題だったのだと思うのです。とされてしまう。
基本的に坪内氏は「あそこに言われていることをそのまま受け取ったほうが生産的である」という立場であり、これは仁平勝氏(昭和24年生)も同様である。ただ、より批評的なのは次のような部分。
ぼくは持論として俳句という文芸は、われわれの中に否定しきれない前近代的なものを、もう一回見直す分野なのではないかとたびたび書いているのですが・・・。
・・・・・・俳句という形式が前近代的な、中世的な形式であれば、それを残してしまったからには、われわれの感性の中にまだ前近代的なものが残っているのではないか。
私自身はあくまでも「俳句」形式は近世俳諧を近代的に加工して造られた、と思っていて、「前近代的」だから「中世的」、という把握には違和感がある。
しかし、戦後俳句の論争史を「イデオロギーと哲学的なことばの歴史であって、俳句の本質とは違うところで一所懸命、俳句を時代の中で位置づけようとしてきた」という部分など、批評姿勢としては共感する所が多い。
もうひとりの参加者、本井英氏(昭和20年生)は、虚子が死んだ直後に俳句を始め、いつもどこか虚子を意識しながら続けてきた、という。そのうえで本井氏は、
虚子には、いろいろな要素があって、それで誤解されたり忌み嫌われたりして、実際に虚子自身が読まれなかった時期が長かったという気がします。・・・(虚子の全集は)戦前のものはもちろん、亡くなってからのものもどれを見ても全集とはとても言えない。つまり読まれていないことは確かなんです。 ()内は引用者の補足
虚子が読まれなかった理由のひとつは、おそらく「イデオロギー」による先入観がある。
2009年には虚子没後50年で雑誌特集が組まれたが、イデオロギーを抜きに、「虚子を読む」試みは、まだまだ始まったばかりだと言える。同じことは「前衛俳句」側にも言えて、一部の「前衛俳句」のようなメッセージ性の強い俳句表現に関して、表現の分析ではなく、メッセージの内容や、試み自体への「賛成/反対」が問われるようなら、それは「俳句批評」ではない。
その意味でいうと、作句でも批評でも「イデオロギー」的側面がなくなった、昭和40年代以降の、高度成長期・大衆化の時代に「現代俳句」がどうあったか、は重要である。
つねに「読者」目線をもつ坪内氏の発言はここでも興味深い。
この(昭和)四十年代以降は、いろいろな俳壇現象があったけれども、もうひとつ広い社会的な広がりで眺めると,山頭火ブームだったのではないかと思います。この時代に世間的にいちばん読まれたのは山頭火です。先ほど揚げられた上田(五千石)さんの句集にしろ、鷹羽(狩行)さんのにしろ、一般の読書人は読んでませんよ。 ()内は引用者の補足川名氏の「昭和二十年代以降の俳句史は書かれていない」という指摘や、本井氏の「虚子が読まれていない」、坪内氏の一般の読書人との温度差、などは、はっきり言っていま現在でもおおむね変わらない実情だと思う。
私自身がそれを打開できるほどの努力をできているわけではないけれども、少なくとも一歩を進めるために、先行者たちの試みを読んでいきたいと思うわけである。
次回は、第7章の座談会を中心に、第2章~第6章の内容を考えます。
なんか思ったより時間がとれなくて、間が空いちゃいました。これはだんだん飽きてくるな。。。
0 件のコメント:
コメントを投稿