これから何度かに分けて、「共同研究・現代俳句50年」という企画連載をご紹介したいと思う。
すでに何度か言及したとおり、これは『俳句研究』で1995年1月から連載されていたもの。
企画説明にあたって、司会の坪内稔典氏は、この「共同研究」が戦後50年ということで企画されたもので、「戦後俳句」という言葉から「現代俳句50年」という枠組みを提唱すると述べている。
明治期における子規以降の「近代俳句」と重ねながら、戦後、第二芸術論を経たあとの「現代俳句」という枠組みの中で研究しよう、という意図を持っていたようである。
参加メンバーは大串章、川名大、本井英、坪内稔典、仁平勝の各氏。
執筆形式は、それぞれテーマを設けて1章を担当し、間に何度かゲストを交えた「座談会」をはさんで連載を振り返るという懇切ぶりで、序章を含む全22章、月刊雑誌だから1年10ヶ月にわたって続けられた大型企画であった。
はじめに全体の目次をあげておこう。[]内は担当執筆者。
序章 座談会 現代俳句50年史 [全員]
第1章 第二芸術論の時代 [坪内]
第2章 雑誌「現代俳句」と新俳壇 [川名]
第3章 批評の射程―山本健吉とその周辺 [仁平]
第4章 青春と俳句 [川名]
第5章 時代の証言―療養俳句について [大串]
第6章 性と風俗 [本井]
第7章 座談会 昭和二十年代をめぐって[全員 + ゲスト・上田五千石]
第8章 根源志向 [川名]
第9章 雑誌「俳句」創刊 [坪内]
第10章 社会性俳句 [仁平]
第11章 虚子の死 [本井]
第12章 抒情と時代―昭和二十・三十年代の抒情俳句について [大串]
第13章 前衛俳句 [仁平]
第14章 座談会 俳句は戦後の時代とどう関わったか[全員 + ゲスト・金子兜太]
第15章 俳人協会と伝統派 [川名]
第16章 昭和ひとけた世代 [大串]
第17章 大衆文化と俳句 [坪内]
第18章 飯田龍太と森澄雄 [大串]
第19章 老大家現象 [本井]
第20章 人生から言葉へ [仁平]
第21章 座談会 俳句の力俳句の未来 [全員]
序章に掲載された「掲載予定」とはタイトルなど一部変更がある。気づいたところは直したが、漏れがあるかも知れない。
当然だが、それぞれの文章は、担当執筆者の姿勢や文体によって、かなり違う。
たとえば坪内氏や仁平氏が資料に基づいて(ときに大胆すぎるほど)明快に時代を分析していくのに対し、川名氏は評論対象を主体的に選択し「批評(価値付け)」しているようだ。想像されるとおり、川名氏は高柳重信系の『俳句評論』にたいへん寄り添った筆致で時代を振り返っている。
そのへん、大串氏は「俳壇史」的に穏当で、執筆項目としても、わりとわかりやすい「現代俳句」のテーマを選んでいるようだ。一方、本井氏は、ホトトギス派だ、というのを自他共に強く意識していて、ときに必要以上に「虚子」を出しているように見える。
と、漠然と感想を述べていても仕方ない。先行世代の「俳句評論」を読み直す、というのがこのblogの主目的のひとつなので、これから何回かにわけて、連載を読み直してみて興味深かったことなどを紹介していこうと思う。
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そういえば最近、spicaの「読む」欄で、神野紗希さんが『俳句研究』の古い号を読み直していたようだ。
かつて『俳句研究』は、一冊まるごと現存俳人特集をよく組んでいていた。表面的な「俳句史」ではなく、当時の評価なども伺えるし、全集などがない作家の場合は非常にありがたい基本資料となっている。
紗希さんが読んでいるのもそのあたりで、「赤城さかえ」とか「榎本冬一郎」とか、名前はよく見るが具体的に作品はよく知らない、という作家を取り上げている。
私の印象からすると、どちらかというと「評論家」の面の強い人たちであり、作品として意識して見たことがなかったので、当時「特集」が組まれるほどだった、ということも驚きだ。
作品としては、やはり頭でっかちな印象があって、なんだか変な句なのだが、こうした作品を読み直すというのはなかなか面白い。
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「詠む」から「読む」時代へ、という流れは、もちろん、先行作家の作品へも、開かれていかねばならない。
spicaは、現代の若手作家の牙城というようなイメージがあり、間違いではないのだが、その「若手」のなかで冨田拓也や西村麒麟のように、先行作家の作品を丁寧に読み続ける人たちがいることは、きわめて重要なことだろう。
ぶっちゃけた話、俳句的なおつきあいのなかで贈答される最新の「句集」や「雑誌」を取り上げて鑑賞文を書くだけならば、それほど努力はいらない。しかし、そうした同時代的な変化だけに惑わされず、幅広く作品を読むという姿勢を持てるのは、少数だろう。
どちらかと言うと私自身、不精で、必要に迫られない限り、あまり句集などを広く読むほうではない。だからこそ、好きな俳句や作る俳句の方向性がどんなに違っていたとしても、彼らの俳句に傾ける熱意に、本当に感心してしまうのである。
しかし、いったい、あの人たちは、あれだけ句集や歌集を読んで、ちゃんと人並みの食事や睡眠を確保しているのだろうか。
謎である。
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ちなみに誰も信じていないけれども、西村麒麟氏は私のような自堕落学生ではなく、きちんと生業を持ってサラリーをもらっている勤め人であるという。
もちろん私も半分以上疑っていて、実は仕事に行くふりをして国会図書館か俳句文学館のなかで遊んでいるのではないか、、、などと思っている。
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