当日入場料は1500円になってしまうので、どちらか迷われている人はとりあえずご一報いただけると幸いです。キャンセル料は発生しませんので。
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上のシンポジウム自体は「関西俳句なう」のなかでは年長組(朝倉晴美、塩見恵介、工藤惠/敬称略)の方々が企画・実行されるので、どちらかというと私はお手伝いのほうである。
そのため、当日どういう方向で議論がころがるか、というのは正直言って未知数。ただ、「作家」と「教育研究者」と「出版者」と、さらに「保護者」と、立場の違う、しかし創作表現にかかわっている人たちが集まったときに、どんなふうなシンポジウムになるか、というのはとても関心を持っている。
こうした活動について、大衆啓蒙だとか、子どもに俳句がわからないとか、そんなことを言うひとは多いと思うが、(私も宣伝している最中にお会いしたが)以前このブログでも述べたとおり、私は「俳句」と「教育」との関係については積極的であって、もっと考えたいと思っているのだ。
(というか、もっとみんなが「考えるべきだ」と思っているのだ)
第一には、教育的意義。
文芸創作を経験することは教育的に悪くないはずで、工藤直子氏「のはらうた」なども同様の効果を期待して全国の小中学校で「みんなも何かの気持ちで詩を作ってみましょう」という授業が展開されている。
さらに、俳句は特に「創作」(作句)と「鑑賞」(選句)が不可分の文芸である。俳句を通じて「伝える表現」「伝わる表現」について意識できるようになるのではないか、と思う。
しかし、そのとき作る俳句が、「ヒマワリがにこにこ笑う夏休」「さみしいが涙こらえて卒業す」(即興の例句)でいいのか、という問題がある。
(※ これらの句は間違いなく作者の思ったこと、感じたこと、経験したことである。体験を句にすることがすばらしい、というだけの教育ならかまわないが、一句として成立するために表現の新しさ、ないし新しさへの志向が全くないものをよしとするのは、表現教育としては不充分だ、と思う。)
「感情表現」や「比喩」ではなく、文芸として、幼くとも不十分でもその作者にしかない発見がみえるような、そんな作品を楽しめるような視点を、どうにか伝えられないだろうか。
欲を言えばつまり、その作者なりの「表現」を、表現する喜びに触れられるような、そんな経験を伝えられないだろうか。
そのような「表現」の楽しみ方を、もしも知ることができれば、小説でも短歌でも俳句でも、将来「楽しめる」、つまり「読者」になっていってくれるのではないか、と思う。
つまり、ここでいう「俳句の授業」は、なにも新たな表現を担う「作家」を育てる、というような傲慢な教育ではない。むしろ表現の楽しさを知る「読者」を育てる授業ができないだろうか、というのが、私個人の考えなのだ。
これは創作一般における市場開拓のための深慮遠謀策でもあるわけで、俳句的に言ってもこれは重要な意味があると思う。
俳句は芸術なりと信じて表現一途に生きるのも俳句史のためには重要だが、一方で俳句表現というもの自体を楽しめる読者を育てていくのも、俳句に関わる者にとってはおそろしく重要な責任であろう。
もちろん、こんな理想的な「表現」の授業が、一朝一夕にマニュアル化して普及させられるとは思わない。ただ、まずは教える側が「表現」のおもしろさに触れていないと、そもそも伝えることはできないだろう。
なにか、授業として一過性に通り過ぎるものではなく、「楽しめる」素材として、俳句や、それに限らず創作一般を提供できないだろうか、というのが、私の中では非常に重要なテーマとして存在しているのである。
こんばんわ。船団では面白いシンポジウムを次々と企画されるのですね。青春18切符が使える時期なので、明日は神戸まで聴きに行きます。私自身のことを振り返れば、学校では俳句の作り方より鑑賞をメインに勉強した気が・・・。
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