2012年2月10日金曜日

写生論の彼方

 

先日、写生の研究会に参加してきました。

佐藤栄作先生(さとあや父)、セキエツ氏ほか、お久しぶりの方々にご挨拶したり、初めましての人にご挨拶したり。
御中虫さんとは残念ながらお会いできませんでしたが、いろいろな方にお目にかかりました。

当初は「研究会」ということで少人数の予定だったのだと思いますが、京都「醍醐会」の方々のほか、東京から来られた人もいて、参加者30余名、ちょっとした規模のシンポジウムに。
詳細は別に報告する機会があるのでそちらに譲るとして、こういうシンポジウムでいつも気になることがあります。
議論が「実作」側に進むか、「評論」側に進むか。

実作者、として議論する場合、話は「作り手として、どうするか」「作り手として、何を考えるか」という方向になる。
しかし考えたって実現できているかどうかはわからないので、「どうするか」は、しばしば「どうあるべきか」「どう考えるべきか」という「べき」論になりがち。
そうなると、賛成できる場合はよいとして、反対する場合は「人それぞれですね」ということになってしまう。
表現は人それぞれが当たり前、統一されたら面白くも何ともないわけなので、結局結論のでないまま、お互いの主観、理想を言い合って終わるしかない。それはちょっと、議論としては不毛なのではないか、というのが、私の考えである。

もちろん、その日に「答え」に向かわなくても(また、この手の問題に唯一の答えなどあるはずもないので)、議論の過程で見えてくる物があれば、また参加者それぞれに発見があれば、それでよい、という立場もある。
そういう面も、ある。

同じジャンルに携わる人間同士、結論の見えない議論を繰り返しながら、表現って何だろう、形式って何だろう。どうすれば、どんな表現が生み出せるだろう、と考える。
それはとても楽しいし、実作者にとって有意義な「肥やし」になるだろう。
喫茶店で一杯のコーヒーで何時間も粘ってしゃべるのもいいし、日付が変わるまで安い居酒屋で管を巻くのもいい。お互いの表現について語り合う。研鑽しあう。大風呂敷を広げる。他人の句を批評する。ほめあう。けなしあう。陰口をたたく。わめく。さわぐ。愚痴る。ひがむ。

・・・・・・なんか楽しくなさそうなのも混じりましたが、しかし。
個人としては、そうした表現との格闘は、とても楽しい、ほとんど快楽的と言っていいことだと思うが、イベントとして、多くの人が集まる場合は、やはり、何かしら、答えでなくともよい、最終ゴールでなくてよい、一歩、「進んだ」「深まった」という実感が、共有できないものだろうか、とも思う。
そう考えると、やはり私としては、ある程度は「評論家」的な物言いをすることが「公」の議論の深化に貢献できるのではないか、と思うのだ。

「評論家」的とは何か。
要するに、「俳句」であったり、今回なら「写生」であったり、を、自分に外在するもの、共有され、説明可能な「もの」ないし「こと」としてとらえる、ということである。
もちろん自分自身が俳句表現に関わっていること、自分の経験、知識に拠るのは当然として、しかし固有の体験ではなく、俳句創作における一般論として提示できるか、ということである。
もちろん、作家的な実感を背景として理論を構築するのが得意な人もいる。作家的体験談が、そのまま一般論につながるような作家もいる。私が言っているのは、一般へのパフォーマンスとして発信する、公開する、というときの、ひとつの形式である。

さて、そう考えたとき、今回はどうだっただろうか。
結論から言えば、私はかなり楽しめた。明確な議論の終着点があったわけではないが、「写生」を議論するうえでの一つの方向性が見えたと思うからだ。

「写生」を、俳句固有の問題ととらえないこと。
「写生」を、表現以前の姿勢の問題ととらえること。

ざっくりまとめれば竹中氏の「写生」論の要諦ははこの2点だろう(詳細は別に・・・以下略)。
これだけ聞くと当たり前に思うかもしれないが、しかし当たり前のことを確認することで、議論はようやく次の、当たり前でない段階へ進める、ということなのである。

※ 竹中氏の写生論について、小池正博さんが研究会の感想を週刊「川柳時評」:「写生」と「ノイズ」でまとめておられます。ここでは「姿勢」の内容については触れていませんが、竹中氏の「写生」論としては小池氏のあげる、外界の「ノイズ」というキーワードが重要。これについてはまた別の機会に。




竹中宏さんという人は、まだ数回しかお目にかかってないが、非常に興味深い作家である。
作品や文章を読むと作家性の強いひとだ、と思い、また実際お会いしても表現者として自覚と自負を強く持っておられるのだが、一方でとても柔軟で自在な論客なのである。だから、作家としての立場をこえて、その意見を聞いてみたい気になる。
当日、懇親会で話していたとき、竹中さんが、
「俳句の議論ではよく、例句が良い句かどうか、論ずべき句かどうか、ランク付けしようとする。僕は、句としてはくだらないなぁと思うものでも読むのは好きですよ」(大意)
と言っていたのが、とても印象的だった。
思うに、「読者」の立場と「作家」の立場を柔軟に入れ替えられる、というのは、「公」の議論ではとても重要なことである。
「詠む」から「読む」へ、という流れを考えたとき、俳句評論もまた、「詠む」ための実践論から「読む」ための一般論へ、という可能性が、求められているのではないだろうか。




と、思っていたら、「読む」波の申し子が、実に的確な書評を書いていた。

森の入口の案内役―神野紗希

驚くべきことに、引用されている岸本尚毅氏の鑑賞文は、当日、「写生・写生文研究会」で話題になった素十の句。研究会では爽波の解釈として、同様のことが紹介されていた。
岸本氏は爽波の弟子なのでどこかで直接聞いていたか、それとも同様の好みになっていうものなのか、なんにしてもピンポイントでこの箇所をあげている、というのは、すごい。

シンクロニシティというかなんというか・・・・・・紗希さん、ついに超能力?


 

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