2020年7月16日木曜日

ビジネスニーズとマーケットの話


あらゆる業界で、マーケットを広く大きく流行にのせる、というより、ニッチでも欲しい人へ届ける、という流れがあると思う。
わかりやすい大きなヒットより、ニーズのあるところに投げ込んで、バズったものが後追いでブームとかヒットとか名づけられる、という感じ。
その結果、「ニーズのあるところに欲しいものを与える」式のビジネスモデルが唯一正解みたいになっているように思う。
買ってくれる前提の市場にエサを与える、公式が供給するのを待つオタク、みたいな囲い込み戦略ばかりになる。 これに「嫌なら見るな」「人の好きなものを悪く言うな」というお気持ち配慮が重なり、容易にカルト化していく。
近しい分野だと出版業界がそれ。
枕詞のように使われる出版不況の実態は、ネットの充実による紙の雑誌不買で電子書籍などの分野を考えると大きな変化がないことが明らかにされつつあるけど、もとより売れないはずの句集や研究書は、明らかに以前よりボンボン出版されていて、人気者になればどんどん一般書を出すようになっている。
もちろんその人たちの仕事が認められ注目されているのだ、と思えば嬉しいしいいことなのだが、結局誰に向けて届けてるのか、どこへ発信できているのか。
カルト的に、教祖の本を買わせてるだけならこれ以上タコツボ掘り進むことに意味があるのか。

オタク界隈でいえば、地上波ゴールデンでの子供番組が減り、深夜帯で、ある程度自由な製作が許されている反面、一定の固定ファンがジャンルを支える、そんな構図なのではないか。周辺ジャンルや歴史を掘り返すような広がりは見込めない。

そういえば、パンデミックの影響下で大学ではオンライン講義が普及したが、学生を名乗るアカウントでオンライン講義の不備を糾弾し学費減免を訴えるものが散見された。
それらの学生の「消費者目線」のクレームに大きく欠けていたのは、本来高等教育が持っていた「自習」という観点ではなかったか。
「自習」の観点のないところに、ただエサのように供給しつづけて、それがどこへ繋がるのだろうか。
 参考:学生の日常も大事(1) - 中世文学漫歩

もちろん私自身は本を読むのが好きだし買うし、俳句においても研究においても本出すことが多いグループに属しているし、はっきり出版反対、などと短絡な意見を言うつもりはない。 というよりできないのだが、しかし「本出す」「活字でまとめる」ことにかつてほどの魅力がなくなってきた時代だからこそ、どうすべきか、どうなっていくべきか、は考えなくてはいけないと思う。もしかしたら、自家中毒は手遅れのレベルに達している。

これはよく「日本のビジネスモデルがガラパゴス化する理由」としてあげられる構図とよく似ている。国内ニーズにあわせて最適化していくうちに大きな変化に乗り遅れる、というやつだ。
ビジネスモデルとしては「マーケットイン」と「プロダクトアウト」の対比として説明されるけれども(参考:どっちか一択?マーケットインとプロダクトアウトの正しい考え方)、当然出てくる反論として、「文芸表現」「研究」と「ビジネス」は、同一では語れない。ビジネスは、売れたら正解だけれども、「文芸表現」も「研究」も、売れるか売れないかより、次世代への「更新」のほうが大切な面がある。
そして、自分で新しい表現、新しい分野を開いたつもりでも、それが、カルト的に閉じた場を作ってしまうだけであれば、とても危うい。

研究の場合なら、幸いなことに「専門家」によってある程度の公共性、客観性が担保されるところがあるから、それがどのような公的評価されているかによって、ある程度判断することが可能である。
ニッチなものでも高い評価を得ているものはあるし、逆に、バズって大ヒットしていても「専門家」によっては全く評価しない、できない、それどころか批判されているものもある。もちろん公的評価がいつも正しいわけではないけれども、いつも正しいわけではないから全て間違いだというのは、無茶な議論である。専門知は、専門知として尊重されるべきである。それによってカルト的トンデモとの差異をつけることができる。

ところがプロフェッショナルとアマチュアの区分が地続きの「第二芸術」においては、プロとしての活動が結局のところ「結社制度」のように、師弟関係が、生徒からの学費で稼ぐ先生という経済活動になってしまうところがあり、しかもそれが、主宰が生計を立てるためのカルト的なマーケットを作り出すだけだとすれば、当人たちはいいけれど、一体何のための表現だったのか、わからなくなってくる。
それでも師弟関係には指導という対価があるが、仮に、出版というビジネスに支えられたプロ活動が成立したとして、それが一部の購買者に対してのみ通用するものだとすれば、純粋な作家と読者との関係のなかで、表現はどこへ進むだろう。

戦後、現代俳句協会は「俳人相互の生活や著作権の擁護を主目的」として設立され、新人賞や機関誌を設けた。(楠本謙吉『戦後の俳句』教養文庫など参照)
協会、ひいては近代的な俳壇というつながりは、タコツボ化しカルト化した商売になりがちな個々の結社ではなく、広いプラットフォームで俳句を評価し、職業作家としての生活を保障するために生まれたのではなかったか。
そうして生まれた協会や俳壇が、逆に作家活動や生活を侵蝕するようなことがあるなら、それは本末転倒といえる。

プロとしての矜持を持ってあえてビジネス面の挑戦してきた尊敬する友人が、その人自身の達成やがんばりとは別に、結局のところ、公共的な場から離れた個人サロンを作りだしているように見える。そんな危うさのなかで、どのような形でカルト的な世界同士をつなぎとめて、大きな更新を作れるだろうか。


過去ツイートをもとに追記、改稿

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