2020年7月6日月曜日

【転載】京都新聞2020.05.25季節のエッセー(12)


「子規の写生」

 不要不急の外出自粛(・・)。接触者の八割減を目指した国の要請(・・)や施策で、「新たな日常を取り戻す」という、矛盾した標語まで飛び出した。
不思議な感覚だ。
予定されていた句会、勉強会は軒並み中止となり、大学の講義も全て遠隔授業、つまりオンラインでの動画配信や資料共有になった。教員も学生もほとんど大学へ通うことなく、ひたすら課題を通して向き合う日々である。新入生は、大学に入った実感もないのではないだろうか。
 外に出ることができない。そんな状況に、明治の正岡子規を想起した俳人は多いのではないか。
子規は二十二歳ではじめて喀血し、二十九歳のころから病状が悪化するが、以来、三十四歳で没するまで病床で執筆活動を続けた。
仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』は、晩年激痛に苦しみながら記した病床記録のようなものだが、今も多くの人に愛されている。それは痛い、苦しい、辛いと訴えながら、どこまでも元気な子規のパワーに圧倒されるからだ。
 たとえば、有名な子規の大食ぶり。
毎食(かゆ)を三碗(毎日ではない、毎食である)たいらげ、そのうえ朝は菓子パン、牛乳。昼は(かつお)佃煮(つくだに)、間食に団子をほおばり、夜はまた鍋や焼き魚を食べて感想を書く。
 そして子規は、よく人に会う。
高浜(たかはま)虚子(きょし)河東(かわひがし)(へき)梧桐(ごとう)()(とう)()()()といった人々が毎日入れ替わり訪問し、雑誌の打ち合わせをしたり、議論を交わしたりしている。
関川夏央さんの小説『子規、最後の八年』でも書かれていたが、子規はすぐ仲間を呼び出した。電話やはがき、電報と手段を駆使し、来るのが遅いと一日何度も連絡させた。かなり大変。
 子規の重視した「写生」という方法は、動きのとれない病床からの庭のながめから生まれた。毎日の小さな変化こそ、頭で作るよりもオリジナルな素材の宝庫だというのである。子規が毎日訪ねてくる仲間と交流し、刺激しあうなかで生まれた発見だった。
 考えてみれば、明治時代ならテレワークという訳にはいかなかった。
十年前と比べても動画配信のスピードは段違いだ。
もちろん対面に比べ不便なことは多いが、通信の発達した今だからこそできることは多い。子規が現代にいれば、きっと今を楽しんで乗り切ったに違いない。
そう思えば、直接出歩いたり、人と会ったりすることのできない今も、立派な「写生」の対象だ。(俳人)

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