黒岩徳将(くろいわ・とくまさ)
ハンバーグ・ステーキというものの立ち位置を考えてみたい。
ハンバーグ・ステーキは決してステーキではない。ステーキよりも、柔らかい。そして、値段が安い。ファミリーレストランの定番料理であり、中流階級の幸せの象徴ではないかと思う。大学生のスポーツサークル集団も、8人で店に入れば2人以上はハンバーグ・ステーキを注文するに違いない。
しかし、ここが重要なのだが、実はハンバーグ・ステーキはステーキになりたがっているのではないか、と思う。なんとなく、固い肉の方がリッチになれる気がする……紙ナプキンを首に垂らすのに、ハンバーグ・ステーキでは若干物足りない......。
20句は安里の自撰ではなく、同じく「群青」所属の玉城涼の選である。
「自撰があまり好きではないので選んでもらいました。」と言われたのでこうなった。
ナイフとフォークを持っているのは玉城だと思っていただきたい。
こう書くと失礼だが、安里の句はステーキを目指しているハンバーグ・ステーキなのではと思っていた。(あらかじめ言っておくが、筆者は句の格調や重々しさが俳句の優劣と直結しているとは全く思っていない。)
こう書くと失礼だが、安里の句はステーキを目指しているハンバーグ・ステーキなのではと思っていた。(あらかじめ言っておくが、筆者は句の格調や重々しさが俳句の優劣と直結しているとは全く思っていない。)
句のかたちというか、ものの言い方に張りがある。内容はウェットであり、詩に飢えている。俳句という詩型が持っている100%の情報伝達量を120%伝えようとしている。
しかし、省略の良さを理解していないわけでは全くない。「ゐる」を使った句が多いことが、何かを説明としての省略とも言えるし、または「存在する」という意味性を強く押し出した「ゐる」だとも言える。
20句を見る限りでは、2015年以前と以降で句柄が変わっている。
「眠り疲れて朝顔の果ての紺」「眩暈とはビニール袋詰めの蝶」は感覚が先行している。朝顔の句は目覚めのときの別の世界にいるような浮遊感と朝顔の確からしさの対比が際立つ。眩暈の句は蝶の紋様を最後にぱっと示すことで、読者を眩暈の世界に引きずり込む。
こう考えると、「初東風や帆柱は詩の如く立ち」の「詩」は、必ずしも風にふくらんでぱんぱんになっている帆柱でもない気がしてきた。「初東風」のめでたさと静けさに対して、吹かれ、揺れながら立とうとする帆柱がぶつかりあっているという構図こそが、安里琉太なのではないだろうか、と思っていた。
こう考えると、「初東風や帆柱は詩の如く立ち」の「詩」は、必ずしも風にふくらんでぱんぱんになっている帆柱でもない気がしてきた。「初東風」のめでたさと静けさに対して、吹かれ、揺れながら立とうとする帆柱がぶつかりあっているという構図こそが、安里琉太なのではないだろうか、と思っていた。
しかし、2015年からは句の方向性がシンプルになる。「なきごゑの四方へ抜けたる夏落葉」は鳴き声を発した動物と一緒にいて、森か林の中を歩いていると読んだが、夏落葉に意外性と実感がある。こだまするのはでなく、「抜けたる」だから、一瞬の激しい鳴き声であったのだろう。
「くちなはの来し方に日の枯れてゐる」「遠泳の身をしほがれの樹と思ふ」も「来し方」「思ふ」がやや強いが、着飾ってはおらず、その場ですっと感じたということが筆致に表れている。この道を進むのだろうか。少し、厭世的な色が強くなっているようにも思える。
作品の方向性が変わったからといって、180度の変化ではない。「ジェラートを売る青年の空腹よ」が、売り子の青年に自分のハングリー精神を仮託していると考えると、「蟻地獄をんなの服のはやく乾く」の若干のナルシシズムと通底することに、ああ同じ作者だな、ということが頷ける。(しかし、この句、なぜ季語が蟻地獄なのだろう?)
自分が好きな人の俳句だと思う。それは嫌みではなく、俳句なんて自分の中に好きな部分を持っていないと書けない。この句はナルシシズムが上手く働いている句だと感じた。
好きな部分をどのように表面に出すか、ということが俳句の方向性を決めるのでは、と思う。ハンバーグ・ステーキでもステーキでもない道を安里は歩き出した。
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