2016年10月23日日曜日

小鳥遊栄樹「風に従ふ」鑑賞 999に乗れない僕たちは



山口優夢(やまぐち・ゆうむ)


湖までを風に従ふ石鹸玉

 湖までを、ということは、湖に達したあとはこのシャボン玉がどこに行くのか彼には見届けられないということの裏返しでもある。きっと、湖の輝きに紛れてしまうのだ。

浅蜊飯ふたつへんじにある母音

 母音はどこにもある。ふたつへんじにもあるし、拒絶の言葉にもあるし、この文章にもある。ふたつへんじをもらっておきながら母音に意識がいってしまう意識のぼんやりさ加減に焦点がある句、と考えれば良いのだろうか。

ぐわちやぐわちやの貝の浜辺や卒業日

 壊れた貝のかけらが素足に心地よかろう。卒業おめでとう、などという言葉を彼はきっとかけられたくはないはずだ。それはちょっと、典型的な一青年の面持ちの風情だ。

辱暑なる風を孕みて大漁旗

 蒸し暑い風、はためく大漁旗、暑苦しい漁師の肉体、乱反射する魚。どこの海にもあるだろう。どこの海とも言えないだろう。

海峡を越ゆる旅路の涼しかり

 その涼しさは地中のトンネルではなく海上の連絡船にあると思いたい。「旅」ではなく「旅路」と書いたことで海の上に「路」が表れることになる。僕には見えていない「路」を、彼は見ている。

はつこひのごとし夜釣の魚の眼は

 閉じられぬ瞳が初恋ならは、私がそっと目をつむろう。それが残酷な神への唯一の抵抗ならば。

あぢさゐを抱へ異国のうみの色

 果たして「異国のうみ」は彼の目の前に広がっているのだろうか。それとも彼の抱えているあじさいがややブルーな色をたたえているのだろうか。後者と読んだ方が異国へのあこがれを胸に抱く憂愁が感じられるとも言える。

桟橋の大夕焼けに続きをり

 銀河鉄道999の線路は途切れて漆黒の宇宙につながっている。でも999に乗れない僕たちは夕焼けへ続く桟橋を見ることはできても渡ることはできないのだ。

故郷に制服のあるなつやすみ

 夏休みだから故郷に制服を置いて旅に出ているのか、昔の制服を夏休みに帰省して取り出して見ているのか―。いずれにしてもこの制服は着ていない気がする。

海明るし指の先より飛び込めば

 飛び込んだ海中の明るさを、指の先から感じとれば良い。

帰省せりテトラポッドの陽に灼くる

 夏だからか、帰省には明るいイメージがある。「桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな」「うみどりのみなましろなる帰省かな」。暗い帰省もあって良い気がする。

焼きそばのソース零せり星祭

 夏祭りみたいな星祭って楽しそう。

はちぐわつの星の近さを岬にて

 岬ならば星が近そうだ、と私も確かに思うよ。

涼新たあつけらかんと猫逝けり

 本当にあっけらかんと逝ったのか、あっけらかんと逝ったように猫が見せているのか、あっけらかんと逝ったと彼が思いたいのか。そもそもあっけらかんと逝くとはどういうことか。ぽっくり逝く、とはやはりニュアンスが違いそうだ。「あっけらかん」は「何事もなかったように」くらいの意味だろうから、猫は死んで何事もなかったようにあの世で鳴いているのか。そうすると改めて問いたい。本当にあっけらかんと逝ったのか、あっけらかんと逝ったように猫が見せているのか、あっけらかんと逝ったと彼が思いたいのか。

立冬の港に足の置きどころ

 海に向けてぶらぶらしているものに置きどころはないのです。

夜に海があまりにとほしおでんつつく

 句を読むと、夜の景色が浮かぶ→次に海の景色が来るしかし「遠い」と言っているのだから海は眼前にはないのかもしれないと気がつくおでんをつついている人が出てくる。ふらふらと視点を定めない句だ。そのスピード感は読者を選ぶが、どうせならもっとアクセルをふかしてみれば良い。おでんではやや失速気味だ。

サンダルに流星蹴つたやうな傷

 流星を蹴るとどんなふうにサンダルは傷つくだろう。「やうな」と言うより、サンダルを蹴ってできた傷だと聞かされている方が面白いかもしれない。

廃船は海を捨つるや星月夜

 海を捨てた船はもうどこにも行けない。星月夜の広大さは残酷かもしれない。

サンダルがまだ海を引き摺つてゐる

 サンダルとしても不本意かもしれない。

二百十日海辺に海の届かざり

 むしろ二百十日の嵐の中なら届いてもおかしくないかもしれない。



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