2016年10月28日金曜日

Kuru-Cole 5 安里琉太




安里琉太(あさと・りゅうた)

 一九九四年、沖縄生。「銀化」同人、「群青」副編集。

 選句 玉城涼 
  
三男に生まれてけふの金魚かな      (2012年)
眠り疲れて朝顔の果ての紺
ジェラートを売る青年の空腹よ
芹の根を離れぬみづの昏さかな      (2013年)
峰雲の骨組みを考へてゐる
まだ誰の手にも汚れぬ焚火かな
初東風や帆柱は詩の如く立ち       (2014年)
眩暈とはビニール袋詰めの蝶
一本の櫂となるべく五月の木
汝が来るにポインセチアの置きどころ
葡萄枯る地の金色の荒々し
あをぞらのさみしさにふるたねぶくろ   (2015年)
それぞれに淡き服着て春の海
欠けてゐて記憶のごとき桜貝
吾もまた灼くるひとつとしてゐたり
なきごゑの四方へ抜けたる夏落葉
木犀や魚族は持たぬ水鏡
蟻地獄をんなの服のはやく乾く      (近作より)
くちなはの来し方に日の枯れてゐる
遠泳の身をしほがれの樹と思ふ


編者コメント

安里くんとは、面識がない。今回のKuru-Coleメンバーのなかで、唯一面識のない参加者だが、共通の知り合いも多く、「群青」のなかでも堅実な実力者であると注目していた。

ただ、隠しても仕方がないので正直に言うが、私は実のところ東京の若手を中心に一大勢力を誇る「群青」というグループの叙情性や古典志向が好みではない。これは私の勝手な性分で、私より若い作家たちが切磋琢磨して技法を高め合っている場に、俳句技法の習得に怠惰な私は少なからず劣等感と違和感とを覚えるからである。
そのなかで安里くんは、たしかに「群青」らしくあるが、古典よりも現代を志向する作家であると推測する。いずれもっと表舞台で活躍するであろうが、今もっとも充実した俳句シーンにいる作家として、Kuru-Coleへ参加を依頼したのである。
(注.そうこうしている間に、今年の角川「俳句」で予選通過していたことを知った。)

さて、今回ほかの人と同様に自薦20句を依頼したのだが、安里くんは自選ではなく他選だという。私をふくめ、Kuru-Cole読者にとってはこの玉城氏の選が、即、現在の安里琉太への評価となる。
ここにあげられた句のいくつかは私にも見覚えがある。「昏さ」や「さみしさ」に特徴があり、また「枯」れたものに着目することで逆にウェットな叙情性を感じさせる。これを「群青」に集う作家特有の若さに帰することは容易い。だが、それだけならつまらない。むしろ、眠り疲れて朝顔の果ての紺」の「紺」のようなテーマを超えた輝きにこそ、安里琉太ならではの強さがあるのではないか。

安里くんの小論は、黒岩徳将氏にお願いした。同世代同士の忌憚ない論になっているので、お楽しみに。


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