そういえば以前教えてもらった「オタク俳句」というのがある。
http://hon-yomi-hp.seesaa.net/article/160859891.html
髪洗ひ使徒襲来の夜明けかな
なんかは、案外悪くない。この試みはツイッターで展開されていたそうで、コメント欄には「宗匠」役に千野帽子氏も登場する。
「関西俳句なう」の「俳句な呟き」vol.8(2011.02.20) では、船団会員ゆにえす氏のサブカル俳句の試みを紹介した。
また春が来る磯野家の不老不死 ゆにえす
磯野家住人を扱った句では最近、『超新撰21』に収められた久野雅樹氏の句、
バカボンもカツオも浴衣着て眠る 久野雅樹
が話題になった。
たしかにマンガ的無理を感じさせない佳句であるが、個人的にはあまりにALL WAYS的情趣が強すぎ、つきすぎ、という感想を抱く。
昭和のマンガの住人である彼らがノスタルジーに馴染みやすいのは当然だが、不条理ギャグと新聞マンガとを同列にノスタルジーに回帰させてしまうのは、作られた昭和像を補強しているだけではないだろうか。
ゆにえす句の内容は、日常会話でありふれた「年を取らないサザエさん」という話題にすぎないが、「不老不死」という語の選択により、「また春が来る」不気味さが倍増され、素材にたよりすぎない問題句たりえていると思う。なにより、昔のマンガを読んでいる、正直な違和感が基底にあることが、久野句との明確な違いになっている。
*
以下、無用の駄文「個性について」。
句集の刊行時期から言って、ゆにえす氏の挑戦は比較的早い段階で意識的に行われたものと言っていいだろうが、おそらく日本各地でオタク気質の人によって同様の試みがされており、「新しい試み」と評価されていると思われる。
これまで局所的に行われていたであろう試みを、しかし一望できる可能性が出ているのは、特にこうした試みがネット周辺で行われる可能性が高い(高かった)からである。
インターネット時代の時代の「挑戦」は、つまり、それら個々のレベルで行われていた挑戦を見渡した上で、さらに半歩でも先を行く、ものでなくてはいけない。
唐突だが、インターネットの普及は、特別メディアを持たない我々のような個人にも、情報送受信の容易さをもたらした。HP、BBS、blog、ツイッター、そして近頃話題の「知恵袋」。
テレビの報道番組では例の「カンニング問題」について、判で押したように「前代未聞のネット利用」とキャッチフレーズをつけているが、ヤフー知恵袋を覗いたことのある人なら、このような事件が起こるであろうこと(あるいは過去現在起きているだろうこと)は容易に想像ができたはずだ。
知恵袋を見ていると、日常我々が思いつくたいていの疑問は繰り返し質問されているし、それぞれに「ベストアンサー」が付けられている。それぞれが的を射ているかどうかはともかく(今回カンニング事件に寄せられた解答も不正確だったらしい)、日常を生きる範囲内において、ある程度の解答を得られれば、まず問題はない。
なかにはこんな質問もある。
「三月の甘納豆のうふふふふ」この俳句の意味を教えてください!
「三月の甘納豆のうふふふふ」という俳句の切れ字と区切れを教えてください!
憶測するに、国語の宿題で出された問題をそのまま投稿したのではないか。
そうではないとしても、国語の授業で習った「俳句」と、坪内句とのギャップに対して生じた疑問をそのまま投稿したもの、であるのは間違いない。
こうした疑問は、おそらく、この句に接した全ての人が共通して抱くだろう疑問である。
分かれるのは、このあとだ。
「ベストアンサー」に満足するか、
その先へ興味をもって進んでいくか。
ネットがもたらす情報の多くは、結局、多くの人が抱く「共通の疑問」レベルに止まる。人間が日常生活を営んでいて出会うあれこれ、そこで思う疑問などに、そんなに違いがあるわけではない。だからたいていの会話は、共感と相づちで成り立つ。
その先へ進むためには個々が能動的に情報(知識)を摂取、解読していく必要がある。
ありのままの自然体で進んだものが共通レベルを超えているということなど、まぁ、ありえない。
まずは共通レベルを見渡すこと。
そのうえになにかを積み上げることができれば、それがはじめて「個性」と呼ぶべき範疇に入るだろう。
*
えーっと、何が言いたいかというと、「小主観」が実は「月並」にすぎないから、「個性」を言いたければ「月並」の知識を蓄えて何が「個性」か見極める眼力養えよ、みたいな、意外と俳句の王道の話題。
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