2012年4月19日木曜日
雑記、読むこと
先日、青木亮人さんたちがツイッターでやりとりしていた、金子兜太についてのツイッターまとめがおもしろい。
青木さんは、金子兜太の造型俳句論、社会性俳句といった動きを、同時代の動きとからめて論じた評論が少ない、と指摘していて、実に「研究者らしい」。
兜太にかぎらず、およそ現代俳句作家について論じる手続きは、いつも不充分としか思えないことが多い。
おそらく、造型俳句論や社会性俳句の議論がやかましかった時代は、いちいち出典を明記しなくても、用語のはしばし、論の方向性で、どんな思想の影響があるか、どういう議論を踏まえているか、というのが、共有理解としてあったのだろう。論を読む側にとっても、「今」なぜこの論か、がわかっているから、盛り上がるのだ。
しかし、少なくとも私にはそういった知識がない。正直、なぜ兜太がこうした論を唱えたのか、どういった作業を経て論を立ち上げるに至り、それが社会的にどの程度どんな影響を与えたのか、といったことがわからないままに兜太の論だけを見てもよくわからないし、作品とどうつながっているのか、も見えずらいのだ。
関連して八つ当たりしておくと、俳句界の「評論」と呼ばれるものを見ても、こういう「なぜ」に答えてくれるものはきわめて少ない。
「作家論」と名付けられていても、作家の俳論を参照したり、句集の出版年次まであげているのはまだ良心的なほうで、ほとんどは俳壇的経歴と、代表句数句の鑑賞ですませている場合が多いだろう。もちろん、評者はきちんと調べていても読者や書肆に求められていないから書かない、ということもあるのだろう。
ただ、こうした「読後感想文」については、もちろん基礎作業としては有意義だしそれだけで読ませる名文家も俳壇に多いことを承知の上で、少なくとも「評論」と呼ぶべきではないだろう。
新人作家、現存作家の場合は、雑誌掲載分とか、ここ数年の代表句とか、かいつまんでも論じられると思うが、物故作家、しかも大作家を論じる際に、手垢のついた代表作数句から「作家論」を立ち上げようというのは、無謀だろうと思う。
それをやって許されたのは山本健吉の時代までで、少なくとも山本健吉によって良くも悪くもある程度「俳句評論」の道筋がついてしまった以上、それを乗り越えるために後進としてはもっと緻密な作業も必要なのではないか。その作家の立ち位置というか、なぜその時その主張をしてその作品をつくったのか、という、作家、作品に即した、「なぜ」を評者なりに考える必要があるのではないか。
その意味で、青木さんのツイートは、「読む」作業と、もう一歩上に「研究」ないし「鑑賞」する、ことの差を、端的に指摘してくれたものとして、興味深く拝読した次第。
もう少し、議論を展開させるつもりでもあったのだが、とりあえずここで原稿あげときます。
2012年4月15日日曜日
俳句ラボ
柿衛文庫で、定期的に若い世代の句会が行われることになりました。
俳句ラボ
~若い世代のための若い講師による句会~
柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください)
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん
・参加費:1回500円
・対 象:15歳以上45歳以下の方
・日 程
第1回:6月24日(日)
第2回:7月29日(日)
第3回:8月26日(日)※吟行
第4回:9月30日(日)
第5回:10月28日(日)
第6回:11月25日(日)
第7回:12月23日(日)〔第4日曜日〕
2013年
第8回:1月27日(日)
第9回:2月24日(日)
第10回:3月31日(日)※吟行
お問い合せは、公益財団法人 柿衞文庫 電話(072-782-0244)まで
上述のとおり「講師」という肩書で、句会のお世話を回り持ちで担当させていただきます。
内容は、それぞれ担当者や、当日の顔ぶれによって変わるかも知れませんが、とりあえず私は「句会を楽しむ」を目指していくつもり。
この場で特に理屈こねたり、勉強会的なことをやる予定はありません。
「お~いお茶」に応募してみて興味がわいた人とか、
高校大学でちょっとやってたけど、結社句会に顔を出すのは怖いな-、という人とか、
俳句甲子園には出場したけど、卒業してから全然やってないなー、という人とか、
結社の句会がベテランばかりなので息抜きに同世代に知り合いたい人とか、
というか全く俳句初めてだけどやってみるかな、という奇特な方とか、
いろんな方、歓迎です。
中谷、杉田、の美人講師に会いたいだけの人も、歓迎します。
(当日担当者は告知しませんので、当日担当が私でもお怒りにならない方限定)
若手に限定した句会というのも珍しいと思いますが、そのぶん人の集まりも悪いと思われるので、このブログご覧になっている方々、興味のありそうな方面には、【拡散希望】です。
よろしくお願いします。
2012年4月7日土曜日
(承前)高低差について
先日の時評に関する記事、やけにアクセスが多いなと思ったら、関さんがツイッターで取り上げてくれていたらしい。
蛇足的に付け加えるが、もちろん『俳壇』誌には何も含むところがない。
ただ、増成氏の「若手」認識の、あまりに旧弊な、二十年以上変わらない認識が「時評」として掲載されている状況に呆然としたのである。
実は『俳壇』誌には「若手作家トップランナー」という連載がある。
生きのいい若手の作品だけでなく、毎回すぐれた評者によって作家論も付してある、という、これは手の込んだいい企画なのであって、結構読み甲斐があるものだ。
いま手元にある、昨年8月号では(特集・妖怪百句物語、の号である)神野紗希さんが取り上げられていて、作家論は櫂未知子氏が担当。日頃親しい櫂さんらしい、情の深い、いい文章である。今後も神野紗希論として参照されるべきであろう。
また、件の今月号ではドゥーグル・D・リンズィー氏が取り上げられており、高山れおな氏が作家論を担当。そこではかつて高山氏が「豈weekly」誌上(オンライン)で掲載したリンズィー論をふまえて記述されており、これもおもしろい。
つまりこれは、同一誌面上にみられる「差」が恐ろしい、という話なのである。
高低差が激しすぎるのである。
この場合の「差」は、割とわかりやすく「世代」で区切れそうだが、おそらく「世代」だけの問題ではなく、普段接している人間関係、あるいはコミュニティ、俳句的用語で言うところの「座」の問題なのだ。
(この意味で、関さんが「句集」を、コミュニケーションツールの一種に捉えている点は面白い。拙稿曾呂利亭雑記: かさま & ゆうしょりんに引用した座談会の発言なども関わるであろう)
作家Aが属するコミュニティと、作家Bが属するコミュニティ、AとBはともに「俳句」というジャンルで、「俳壇」に属していながら、分裂してきた。
これまでだとたとえば、「地域」(中央と地方、都市と田舎)、あるいは前衛とか伝統とかの「所属」「俳句観」で、これらは分裂していたのである。
無視するとか、対立するとかではないのである。まったくの没交渉。相手が何をやっているか、ということに興味関心をもたず、まったく、「知らない」という状況。
すなわち、「結社のタコツボ化」という表現で、あらわされていた事態である。
実際問題として、ひとりの作家がふつうに生きて交流できる人数は限られているから「結社のタコツボ化」は当然おこりうる。
それ以上に「外部」と交流することを望む時代(つまりそれだけ俳句が多様化し拡大した時代と言うことだが)に求められたのが、「総合誌」であり、また「協会」という形式だっただろう。
ところでその、「地域」や「世代」をこえるツールとして期待されたのが、現代にあってはインターネットであったはずである。
事実、「週刊俳句」は、結社や地域の縛りをなくして、「同時代の俳句を読みたい」欲求に答えるために、発足した。
しかし今、「週刊俳句」がひとつのコミュニティ、つまり「ネットツール」を利用できる層だけのコミュニティ、となってしまって、「ネットツール」に親和的な作家と、そうでない作家とをまったく区分してしまい、コミュニティの外部、つまり既成の「俳壇」的なるものに、まったく届いていない、まったくの没交渉になるのだとすれば。
これはいささか、背筋の寒くなる事態である。
正直に言ってしまうと、私は筑紫磐井氏がけしかようとする「世代間闘争」には、あまり関心が持てない。
それより私は同時代全体の「没交渉」をこそ、どうにかならないか、と思う。
お互い「俳句」に関わるなら、お互い、建設的に、コミュニティ同士、回路設けていけませんか、と。
2012年4月4日水曜日
時評について
こんにちは。サボるつもりもないのですが、また期間があいてしまいました。
週1更新、月4~5回ペース、と思っているのですが、3月は3回しか更新できてませんね。面目ないです。
*
先日、北のほうへ行ったついでに東京へ立ち寄ってきました。
そのときにも話題になりましたが、八田木枯さんの訃報。最近ネットを通じて面白い作家だと知ったところだったので、やはり残念。
木枯さんについては週刊俳句、また「きりんのへや」でご参照いただくとして、私が興味を持ったのは、関悦史さんの時評であった。
週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評61〕なぜ句集なのか ――現代俳句協会青年部勉強会 「シンポシオンⅤ 句集のゆくえ」の後で 関悦史
これは直接には現代俳句協会青年部の勉強会、「句集のゆくえ」からスタートしている。
関さんは周知のとおり『六十億本の回転する曲がった棒』(邑書林)を上梓されたわけだが、そもそもなぜ「句集」という形態が必要だったのだろうか。
ネット媒体に親しい関さんあれば、当然、紙媒体以外にも作品発表の選択肢は多かったはずだし、そもそも関悦史という作家の個性を考えると、「句集」という形で後世に遺ることを至上としているようにも思えず、「俳壇」的評価を気にするお人柄でもなかろう。そんな関さんが句集をどう思っているか、というのは、たしかに興味深い点ではあったのだ。
関さんは結局、「句集」という形態は読者の読みたい欲求と作者とを結ぶ「交流」の手段だ、という。そしてそこから最近接した作家の訃報を通じて、
句集を編む際には、それを届け、読ませたい誰彼の名が、数百人以内の規模で現われる。現在、俳句が「座の文学」であるということの潜在力は、句会よりもむしろ(遺)句集編纂という局面でその真価を発揮するともいえるだろう。と論じる。
ところで、関さんの時評がおもしろいのは、この続き。
ここから外山一機さんが『鬣』に発表したという文章に接続し、インターネットでの送受信が容易になってしまったことでかえっておこる「奇妙なループ」、つまり、「ネット上での活動はしばしば不特定多数よりは特定のコミュニティ内の誰かに向けて発されてしまう」という、外向的に見えてその実内向的な奇妙さ、に警鐘を鳴らすのである。
ネットを通じた交流の広がりが、実は小さな島宇宙を形成していくだけだ、というのは、SNSやツイッターのようなコミュニケーションツールを論じる際に言い古されているが、「句集」の問題から、ネットツール問題にまで言及できるのは、やはり関さんならではと言うべきだろう。
*
こんなことを考えたのは、実は『俳壇』4月号誌上の「時評」の、あまりのていたらくに驚いたためである。
増成栗人氏の文章で、話題は俳壇の高年齢化について。
まず小中学生への俳句教育から書き起こし、しかしその上の世代である二十代、三十代の割合が5パーセントを超える結社はほとんどないだろう、と言って結局明日を作るのは若者なのだから「若人」たちよ恐れずに一歩を踏み出せ、と結んでおられるのだが、驚くべきことに、そう、まったく私には信じられないことなのであるが、文中、俳句甲子園にも、芝不器男新人賞にも、『新撰21』にも、それどころか、高柳克弘、神野紗希といった名前すら、ただの一回も言及がなく、唯一登場する作家の名前が、なんと黛まどか氏『B面の夏』なのだ。
(黛まどか氏については外山氏の俳句時評のほうがよほど読むに値する。増成氏が俵万智氏と黛氏を単純にならべて短詩型ブームがおこったように書いているのに対し、外山氏はきちんと年次をあげ、最後に松本恭子氏にも言及している)
増成氏が言及するのは、各結社が小中学生相手にジュニア俳句を指導している努力、であって(おそらくご自分の結社でされているのだろう)、二十代三十代はもう一人も育っていないような口吻であり、そのうえで「若人」たちへ、夢と責任をもて、と、おっしゃるのである。
当たり前だが、いち結社のなかで若手が何パーセントだろうと、それは結社内部で解決すべきことであり、総合誌上の公論としては、「俳壇」全体の何パーセントが何歳代であるか、ということを話題にすべきなのだ。
仮に、増成氏が、今の若手に黛氏のように論評に値する実力者ないしカリスマ的な存在がいないというのであれば、そのように書くべきであろう。
現在の「若手」を一切無視して説諭されても、「若手」としても聞く耳の持ちようがない。
「新撰」シリーズによって「若手」ブーム、ともてはやされているようでありながら、そのブームが「新撰」以外の若手におよぶどころか、ブームすら無視した議論が、総合誌上に「時評」として掲載されているという、その格差は絶望的である。
結局、「新撰」シリーズですら、話題になっているのは「週刊俳句」界隈、という、新たに作られた狭いコミュニティのなかだけ、ということなのだろうか。
*
かつてこの場で、私の期待する「時評」について書いた。
曾呂利亭雑記: 若手評論家見取り図、時評篇
「時評」とは、時機に応じた批評、評論、であり、一個の完結した論考である必要はない。しかし、ときどきにおける問題提起がなければ「時評」ではない、と思う。
要するに、インプットとアウトプット。
読者の知らない情報をインプットする情報収拾力と、その情報を読者にとって身近な問題、公論のために必要だととわからせるアウトプット、問題提起の力が必要なのだ。
もっと言うなら、小さなコミュニティのなかだけで消費されがちな問題を、隣のコミュニティにもわかりやすく提示してくれる、「道しるべ」であってほしい、ということなのだ。
その意味で私は、自分の参加できなかった研究会の内容や、知らなかった最近の句集、評論の話題から問題を提起してくれる、関さんの時評にたいへん刺激をうける。
あるいは川柳世界の案内人として、毎週力のこもった鋭い問題提起を発信し続けている小池正博さんの時評を愛読する。
あるいは、ときにジャーナリスティックにすぎる高山れおな氏の文章や、幅広い目配り(気遣い)と一貫した問題意識をもつ高柳克弘氏に対して、論旨とは別に深い共感を覚えるのである。
2012年3月18日日曜日
週刊俳句 第256号
ひとつは先週から引き続き、井上井月特集で、今回は相子智恵さんに加え、週刊俳句では久々登場、西村麒麟さんの原稿がふたつも。麒麟ファン必読。
もうひとつ、先月頭に京都で行われた、「写生文」研究会が特集されています。
私も、レポートを一本寄せておりますので、よろしければご覧ください。
当日の竹中宏氏基調講演のほか、彌榮浩樹氏の評論、当日配布された参考資料などもアップされており、なんというか、文字数がハンパない。
ついでなので、後記の上田信治さんのあおり文を引いておきましょう。
今号は、圧倒的なテキスト量です。
●
写生文研究会の記録は、なんだか、すごい理論水準なんじゃないですか、これは。どの部分をとっても、必読です。
井上井月特集の、西村麒麟さん、相子智恵さんの両エッセイは、ともに泣かせます。これも必読。
ゆっくりどうぞ。それだけの値打ちのある号かと。
今週読み切れなくても、右サイドの既刊号の目次から進んで、バックナンバーは、いつでもお読みいただけます。
そういうわけなので、必読、です。
*
たぶん今回レポートを依頼されたのは、以前、船団のイベントでレポートしたところで見込まれたのだろうと勝手に推察して、今回また「再現レポート」を試みたわけですが、なんと申しますか、はい、まぁ、大変でしたよ、結構。はい。
殊に関さんのナイアガラ・トークをメモして、記憶を頼って書くのは大変でした。
一度でも関さんの話を聞いたことがある人はご存じと思いますが、引用とか注釈とか、無尽蔵にいろいろつながっていくので、私くらいの偏った知識では追いつけないわけです。いや、聞いているぶんには、わからなくともスリリングで愉快なのですが、書き起こすとなると責任が生じる。
とすると、独断と偏見で、面白いところは拾って、わからんところは切り捨てて、とせざるをえないわけで、最終的にはご本人にもメールで送ってチェックいただいたのですが、かなりの部分が久留島を介して偏向している、と思っていただいた方がいい。
それはもちろん、ほかの方の発言にも云えることで。
えーと、つまり、このあたりの「偏り」具合が、写生が消えた後に残る個性です、という。
さしてうまくもないオチがついたあたりで、オチがわからない人は拙稿ご覧いただければ幸いです。
啓白。
*
googleブログの設定を以前のバージョンのままにしているせいなのか、最近ちょっとだけ使い勝手が悪くなっている。
たとえば、ドラッグしても選択できなくなったり。
これ、地味にフォントを変えたりするのが面倒なのです。
それに、コピーしてきた文章を貼り付けようとすると、妙なところに表示されたり。
なんか、地味な、嫌がらせで、新しいバージョンに変えろという意味なのか、それとも知らないうちに新しいバージョンが浸食しつつあるのか。
うーむ、小面倒臭い。
*
追記。
愛媛大学「写生・写生文研究会」(2012.02.04、於京都)関連リンク。
週刊「川柳時評」 「写生」と「ノイズ」
けふえふえふとふてふ 写生についてのシンポジウム
『日々録』ブログ版 夜雨、など
『日々録』ブログ版 釘煮、など
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第256号 2012年3月18日
写生写生文研究会 第一部基調講演 写生の「中味」竹中宏
写生写生文研究会 第二部第三部レポート 写生ー俳句の場合ー 久留島元
写生写生文研究会 私的感想として 彌榮浩樹
資料 写生不快 竹中宏
資料 ノイズのこと 竹中宏
資料 写生について 関悦史
2012年3月16日金曜日
御中虫氏についての断章
なかなか、すごいもんが出たな、という。
赤い新撰 「このあたしをさしおいた100句」
こんなふうに的確な批評を「悪口」スタイルで浴びせかけられるというのは、やられる側としては、嬉しいのと辛いのと、半々であろう。
同時に、「アンソロじれない僕ら」(※)としては、うらやましいのと大変そうだというのが、やはり半々。
(※注、アンソロジーに入ってない僕ら、の意味。)
的外れな批評なら不快でも無視すればよいが、的を射た批評は、耳に痛い。そしてこれはかなり「痛そうな」悪口である。
これが「超戦後俳句史」に連なった、つまり「世に出た」作家ならではの苦労というべきで、むろんこれに耐えられないような柔弱な作家はもとより「アンソロジ」ってないわけであろうが、一方で御中虫氏の「芸風」を知っているかどうか、も、この「悪口」を素直に受容できるかどうかには重要だったと思う。
たぶん、もともと「芸風」を知らない人にとってみると、内容よりもまず書きぶりで感情面を刺激されるであろう。とすれば、少なくとも最初に槍玉にあげられている人たちは、御中虫氏の「芸風」については知悉している顔ぶれであろうから、プロローグとしてはふさわしい、ということになる。
ちなみに筑紫磐井氏の前口上後口上は賛否両論で、「芸」として見ると明らかに蛇足であるが、いらぬ誤解や誹謗でせっかくの「作品」が摩耗することを避けたいという(過保護気味の)愛情が感じられ、「芸風」を知らない読者にとっても親切であったと思う。
そういえば高山れおな氏は、先日の「週刊俳句」後記で、
先日、俳句甲子園に審査員の一人として始めて参加して大変楽しかったが、社交は俳句(特に批評の)敵ではないかとの反省もつのるこの頃である。
と自己紹介していたが(ところで高山氏は今は俳句甲子園審査員をつとめておられないはずなのだが、このプロフィールは前の使い回しか?)、御中虫氏の「悪口」は、社交と批評との歓迎すべき融和だったのではないか、と、思っている。
ともあれ充分に整えられた舞台設定のなか、新たな批評のスタイルをもつパフォーマーが誕生したことを祝いつつ、今後累々と並べられるであろう御中虫氏の舌鋒の犠牲者たちには同情しつつ、読者として連載を楽しませてもらいたい。
ちなみに「詩客」サイトでは第二回がアップされている。
*
御中虫氏に関して言えば、句集『関揺れる』の刊行も近日に迫っている。
http://younohon.shop26.makeshop.jp/shopdetail/003000000019/
こちらは、長谷川櫂氏の震災句集に対抗して、御中虫氏が唯一「震災」を感じられる「季語」である「関揺れる」を、自ら創出して作り上げた125句の記録である。
ひとまず私としてはこれら「震災特需」(※藤井貞和氏)についてあまり関心がもてないので購入する予定はないが、邑書林の句集特設ブログ、および「虫日記」に語られる、作品発表から出版にいたる経緯は、なかなか刺激的で興味深いものだ。
御中虫句集『関揺れる』ブログ
「虫日記R6」2012.02.24
文句を言うより作家なら作品(彼女の言葉で言う「実弾」)として示せ、というのは、いたって正論であるが、もちろん作品を作らない、というのも一つの回答である。
句集の内容については125句のうち120句がブログで公開されている。静かな立ち上がりから現実世界を踊り出し、過剰なまでに逸脱していく「虫節」がおもしろい。
虫氏は、きわめて意識的に「御中虫」イメージを構築、プロデュースしている。私にとってはそこに表現された、意識的なイメージ戦略こそ興味深い。
当初「御中虫」は、女性性とか、暴力性とか、とかく実体をもった作者性を感じさせる作家として認知されていたようである。その意味で御中虫は、ステレオタイプな「女性俳句」の系譜に連なる、きわめて私小説的な作家、という誤解があったように思う。
むろん虫作品の世界は「御中虫」という名の実体を持つ女性の、リアルな日常をもとに作られたものなのであろう。しかしその作品群が、虫氏のリアルな現状を表現しているようにみせて、結局きわめて加工度の高い「作品」なのだ、という、いわば当たり前の事実は忘れるべきではない。「作品」から立ち上がってくる「御中虫」は、実体とは別の、意識的に作られた、仮構された「御中虫」である。というより、彼女の一連の言動は、作品を通してしか存在しない「御中虫」のほうを積極的にプロデュースし、実体を持つ作者のほうを消してしまおうという意図をすら感じさせるのだ。
小川軽舟氏はかつて、御中虫作品に「定型の引力」を見いだした。
定型というのは日常言語を韻文に加工する手段であり、そこで表現されたときすでに彼女のリアルな日常は「作品化」してしまっているわけだが、一方で種田スガルや又吉直樹の自由律句にはそこまでの「加工度」が感じられない。
それが小川氏のいう「型」の引力ではないか。
「御中虫」からは、表現され、加工化された作品を通じてのみ世界と関わろうとする覚悟を感じさせる、とまで言えば、これは言い過ぎだろうか。
しかしそのような、読者の期待に応えて日常生活をも切り取って作品化してみせるエンターテイメント的パフォーマンスは、おそらく『新撰21』巻末座談会に指摘された北大路翼、高柳克弘らのもつ「エンターテイナーぶり」と通底し、また、佐藤文香の一連の「芸風」にも非常な近似性を思わせる。
*
ちなみに、こうした強い「作家意識」は、私自身にはかなり希薄だと思う。
それはつまり、私自身が、俳句を「遊び」と思い、俳句作品を発表する「作家」の立場よりも俳句を楽しむ「愛好者」の立場のほうに重きを置いているからである。
これについてはまた稿を改めて言及する機会もあろうかと思う。
2012年3月9日金曜日
サイト紹介
3月3日シンポジウムにご来場いただきました皆さま、ありがとうございました。
お陰様で大入り満員、当初予定よりも大勢来ていただきまして大盛会でした。
スタッフ一同慣れないこともあり準備不足、当日は裏方でばたばたしてしまって内容も充分に把握できていないので、その意味で反省点多し。ご来場の方々、パネリストの方々にもご迷惑かけること多々。もちろん作品創作と教育現場とをどう結ぶか、というのは今後もきちんと議論されるべき重要な課題なので、今回まとまりがつかなかったこともこれから考えていかなくてはいけないかな、などと。
*
それはさておき、今回はサイト紹介ふたつ。
ひとつは、「ふらここ」中心メンバーで、現在スウェーデン留学中の黒岩徳将くんのサイト。
スウェーデン×俳句×教育×俺
U25日本代表として、遠く離れたスウェーデンの地で「俳句的生活」とは何か? を実践、研究している、まさに体当たり俳句ルポ。
この行動力に羨望ですね。
国際俳句運動というのは、個人的には他言語がまったくできないこともあって夏石番矢さんの名前が思い浮かぶくらいの関心しか持てないでいるのですが、俳句を完全に相対化して見るためには国際という立場の視点も有効なのかも知れません。
難しいことのひとつは「翻訳」の難しさで、つまるところ文学は翻訳できるのかどうか、ということ。つまり、芭蕉や蕪村、子規や兜太という、日本人でさえある程度の「俳句リテラシー」を必要とする作品を、果たして海外に持って行けるのかどうか、ということです。
むろん私だって、それこそ幼少期の『おおきなかぶ』『ひとまねこざる』時代から、ディズニー、ロフティング、エンデ、ヤンソン、C.S.ルイス、もちろんグリム、アンデルセン、西遊記、水滸伝など、数々の翻訳文学の恩恵を被っているわけですが、残念ながら原著で読んだことは一度もない。せいぜい大学に入って少々漢文を読んだくらいのものです。
だからこれらの作品について、本当にその作品を楽しんだのか、それとも実は石井桃子や瀬田貞二の訳を楽しんだだけなのか、というのは畢竟、わかりかねる。散文であってもそうなのだから韻文であれば難しさは倍増で、だから柴田元幸氏のような個性的な「翻訳家」の存在に頼らざるを得ない。
すぐれた日本文化の理解者であり紹介者である、ドナルド・キーン氏は、泉鏡花の文章を絶賛した文章で次のように言っている。
こんなに鏡花の小説にほれている私に、「翻訳する意志はないか」と問われたら、返事は簡単である。「とんでもない、この快感を得るために三十年前から日本語を勉強したのではないか」と。
『日本文学を読む』(新潮選書)
とすれば、つまるところ国際俳句は、翻訳文学としてでなく、「国際俳句」として、「俳句」とは違う基準を設ける必要がおそらくはあって、どこをよりどころとして「俳句っぽさ」を担保しているのか、ということは、興味深い問題として、今後黒岩くんに聞いてみたいところなわけである。
*
もうひとつ、これは「船団の会」メンバーでもある芳賀博子さんのサイト。芳賀博子の川柳模様
芳賀さんは俳句でなく川柳人で、いわゆる時実新子「川柳大学」の出身者。昨年「かもめ舎」主催の句会・座談会でご一緒させていただきました。
『船団』でも「今日の川柳」を好評連載中ですが、こちらのサイトでも「はがろぐ」ページで、川柳鑑賞が公開される模様。
とてもきれいで見やすいサイトなので、是非一度ご覧ください。
しかしこのサイトを見てしまうと、「関西俳句なう」ページの、いかに粗雑だったことか。。。今度やるときは、ちゃんとHP作れる人に手伝ってもらいたい。。。
樋口由紀子さんの「金曜日の一句」と並んで、川柳界にも「読む」流れが広がっていけばおもしろいのに、と、ひそかに期待。
