2019年11月8日金曜日

【転載】京都新聞2019.10.14 季節のエッセー(6)


「うんどうかい」
スーパーで買い物をしていたら、「うんどうかい」と書いてある立て札が目に入った。入場門を模した飾りつけ。そんな季節か。
最近は、夏場の練習を避けて五月に開催するところも多いと聞くけれど、それでも「スポーツの秋」のイメージは強い。
フリー素材を駆使して作られた飾りつけを見ながら運動会の思い出を振り返ろうと思ったが、ほとんど何も覚えがなかった。当たり前だ。昔から運動は嫌いだった。むしろ、姉の学校の運動会へ、家族で応援に行った思い出のほうが鮮明である。
自分だって相応に応援されたはずだが、何の記憶もない。
いや待て、確か低学年の団体競技で、ボールを使った創作ダンスのようなものをした。放り上げたボールをうまくキャッチできず、競技中何度も拾いに行った。逃げ出したくなった。なんだか、ぽかりと頭の隅に空気が入ったような、むなしい、さみしい気持ちがした。
騎馬戦をやったのは何年生だっただろう。
健康体なのに体力がなく、とにかく運動ができなかった。物心ついたときから、どうも自分は体を動かすのが人より苦手だということに気づいてはいた。
逆上がりができない。
なわとびができない。
個人競技はまずくても自分が落ち込むだけだが、球技や団体競技だとクラス全体に迷惑をかけた気になるのがいやで、運動は、やるのも見るのも、応援するのさえ面倒だった。
もちろんマラソン大会は常に最下位。走っている間はいいが、先生と一緒にゴール付近に戻ってくると女子が走り始めていて、ゴールの前にすれ違うのが変な気持ちだった。
中学受験のとき、マラソン大会がない学校を選んだ。それだけが要因ではなかったけれど、それが大きな魅力だったのも確かだ。
大きな声では言えないけれど、中学、高校の体育の授業は実に不真面目だった。体育祭は友だちとしゃべっていた記憶しかない。ずる休みするほどの度胸はないので、自分の出番くらいは出場したはずだが。
頭の隅のぽかり、は、まだ残っていて、ときどき発動する。
ただの逃避癖である。
とはいえ、それが私にとっては当たり前になり、ぽかり、をなだめて、怒られない程度にやりすごせるようになった。ぽかり、のむなしい手ざわりは、どこかで私の俳句につながっている気がする。(俳人)

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