私が俳句を始めたのは第4回俳句甲子園に出場することが決まった2001年の4月ごろ。
それから今日まで、多少のブランクを挟みながらも一応「俳句を続けている」。つまり「俳句の実作を続けている」ということである。
ところが、実はこの数ヶ月、ほとんど実作をしていない。
句会にも顔を出せていないし、結社誌への投句も出したり出さなかったり。実際ばたばたしているし、タイミングが悪かったり単純に忘れていたり、いろいろだが、どうも意気が上がらない。
これではとても「俳句を続けている」と名乗ることはできない。
ところが一方、ネットに接続すればほぼ毎日spicaの更新をチェックし、e船団の記事を拾い読み。毎週日曜に「週刊俳句」、金曜日には「川柳時評」「俳句空間」。
最近はじめた「俳句Gathering」のTwitterで短詩型関係者の動向を知ることも多い。
麒麟さんから「変な句集買ったよ」とメールをもらうこともあるし、
書店に行けば俳句総合誌を一通り立ち読みする癖は相変わらず。
句会には行けていないのに、俳句仲間に会う機会は、案外なくなっていない。
これは、惰性ではないか。
そう思うこともある。
ネット記事だって、内容に関心があるのは事実で、刺激を受けたりおもしろがったりしているが、実態はほとんど習慣である。
あるいは総合誌で、ついつい知り合いの名前を探して読んでいるのは、単なる友情であり人懐かしさであって、俳句表現への純粋な興味では、ないのではないか。
思うに私が俳句を続けているのは、俳句を続けられる環境があり、すぐれた作家たちに巡り会い句座を共にできた、いわば偶然の結果であって、俳句表現への飽くなき欲求など、私にはないのではないか。
いったい、私が俳句に求めているのは、何なのだろう。呑み友だちが欲しいなら、別の出会いもあるはずだ。
*
ところが、ある瞬間にはそんな煩悶は氷解する。
たとえば角川「俳句」をひらいたとき。
夏の雲ファラオの壁画みな働き 西山ゆりこ
毎日が快晴目高覗き込む
なんだ、この健康優良ぶりは。と、思わず笑ってしまう。
直接知り合いではないが、この人の堂々とした詠みぶりは好みのタイプ。
純喫茶「丘」のまはりの春の光 佐藤文香
お、次はこう来たか、と。
知っている中でも、次の一手が読めない、常に実験中の作家は面白い。同時代を生きているから楽しめる楽しみ方。
*
たとえば「川柳カード」をひらいたとき。
ちりがみに包んでおいた「死んでるみたい」 榊陽子
どうすれば壁を独占できますか 小池正博
にんげんの酸味が残る銀の匙 くんじろう
手をあげて紙コップから飛び出した 湊圭史
馬車馬が初めて馬車を見た日の午後 兵藤全郎
うーん、変な句ばっかり。
何が面白いかとは言いにくいが、ある意味でストレートな、作者自身が日常から切り取ってきた「奇妙さ」「不気味さ」がナマに出ている感触が『川柳カード』のおもしろさ。
その一方で
春の雨読むはずの本ことりとす 広瀬ちえみ
万緑をくぐる全身ゆるくして
なんて、季語もあるし、どこが川柳なのか、俳句として注目してしまう。
万緑の力強さに対して「ゆるくして」と言えるのは、さりげないようでかなり新鮮ではないか。
そう、私は、今、この時、この一句に出会う、この一句に驚く、この一句を楽しむ。
そのために俳句を続けているのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿