二人の合作俳句を淡々と綴ったもので、一句一句は音律がそろっていなかったり、投げっぱなしだったりして、読みづらいものも多かったが、続けて読んでいくうちになんだか楽しくなってしまい、ちょっと中毒になってしまった。
活動は2011年から開始された、というから、もしかするともっと前にも一度くらい見たことがあるのかも知れないが、ずっと忘れていたので、やはり発見という感じであったのだが、最終更新は昨年で止まっており、再開しないかな、と期待していた。
ちなみに、googleで「外山一機 巻民代」を検索すると、過去のログがいくつか見られるのだが、ブログ本体が消えているのに検索結果にあらわれる、という、私はこうしたログ機能について詳しくないのでよくわからないのだが、実に中途半端な、幽霊じみたことになるからおもしろい。
ちなみに、googleで「外山一機 巻民代」を検索すると、過去のログがいくつか見られるのだが、ブログ本体が消えているのに検索結果にあらわれる、という、私はこうしたログ機能について詳しくないのでよくわからないのだが、実に中途半端な、幽霊じみたことになるからおもしろい。
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と、思ったら、外山さんによる巻民代追悼句集「御遊戯」が発表された。(2013.05.18)
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おにく食べれない佐藤さん、も秋よね、秋秋。(時刻:08/18/2011)
桜木町にも売っているのね、好きよグロンサン。(時刻:08/19/2011)
引鶴!ねえアフリカが全部ほしいの(時刻:08/28/2011)
三叉路でしずかにうんこしていたの(時刻:09/21/2011)
それぞれの俳句?には数行にわたる詞書が付されているが、句意にはほとんど関係なく、と言い切るのはやや躊躇われるものの、友だち同士の会話の一部のような、あるいはブログの一部を抜粋したような、女性らしき作者(巻民代)の日常報告が綴られている。
たとえば、「桜木町~」の詞書は
朝なのにものすごい暑くて、せみも鳴いてるし、これはもう山崎まさよしって感じがした。でも桜木町に降りても山崎まさよしとかいないし山崎まさよし聴いてそうな人もいないみたい。であり、また、「引鶴!」の詞書は、
「コーヒーゼリーを頼む人ってどういう気持ちなのかしら」「僕は好きだけど」「それって蕎麦屋でカレーを頼むような感じ?」Mは長いこと黙って考えていたけど、そうしているあいだにもリビアじゃきっと国旗焼かれたりしていたのね。である。
「俳句」と、「詞書」との区別は、ここでは長短の差こそあれ、文体も内容もほとんどほとんど無化され、差別がないように思われる。
にも関わらず。
私たちは、この「句集」の、ど真ん中に置かれた大文字フォントの部分を「俳句作品」として受け取り、その前に付された小文字の数行を「詞書」として理解する。
作者の提供する「俳句」とは、
私たちの知る「俳句」とは、
いったいなんなのだろう?
という問いを、読者の内部に生じさせるために、作者の企みは終始しているようだ。
もっとも、句集の後半におよんで、「俳句」作品の加工度は、やや上がっているように思う。つまり、日常会話から「作品」を取り出すにあたり、「手間とセンス」が加わっている。
言い方を変えれば、「異化」がおきている。
そうねわたしも。
俳句がある・原発がある・ぱんぱんがある(時刻:08/07/2012)
Mよりよっぽど大事。
今日は駄目。二十四時間テレビがあるの。(時刻:08/18/2012)
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この句集は2011年から外山一機と巻民代のユニット「トヤマキ」として活動するなかで制作した俳句をまとめたものです。・・・・・・
巻民代は外山一機の別称です。ふと思い立って始めたブログ「トヤマキToya-Maki」ですが、不定期に書いていたこのブログも今読み返すとすでに過去の作品と呼ぶしかないものになっていることに驚きます。
句集のあとがき。
これ以後は作者が、なぜ「巻民代」という「別称」を設定するに至ったか、が簡潔に述べられている。
「外山一機」という作家に関心を払う人間には、同時に発表された句集『平成』あとがきと、本書あとがきは必読だが、それはさておき、あとがきの末文は次のように措かれている。
「巻民代」の正体がなんだったのか、いまだにぼんやりとしていてその答えが見つかりません。ただ巻民代の名で俳句を作るとき、まるでいくらでも作ることができるような恐怖と快楽とにしばしば襲われていたことはたしかでした。
私が読者として感じた、一種の「中毒」的な快楽も、おそらく、作者が感じるのと同種のものであろう。
俳句(という名のもの)が、無制限に広がっていく。
その、途方もない混沌というか広がり、どこまで「作品」として形を保っていられるのか、というチキンレース的な快楽に興じさせられるのであり、また、それがついつい作者も読者も「楽しく」なってしまうのだ。
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巻民代は、なぜmaki-tamiyoだったのだろうか。
toyama-kazukiのアナグラムかとも思ったが字数があわない。
あるいは「別称」という設定も創作であり、実在の人名を借用されたものかとも疑っている。
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「共同研究・現代俳句50年」というかつての企画特集を読み直す企画を、途絶しているのだけれど、第14章「俳句は戦後の時代とどう関わったか」という座談会で、坪内稔典氏は次のような発言をしている。
正確には坪内氏は席上におらず、のちに座談会原稿に追記した「誌上参加」のようだが、この「虐使」というニュアンスの微妙さが、私は気に入っている。
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あるいは「別称」という設定も創作であり、実在の人名を借用されたものかとも疑っている。
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「共同研究・現代俳句50年」というかつての企画特集を読み直す企画を、途絶しているのだけれど、第14章「俳句は戦後の時代とどう関わったか」という座談会で、坪内稔典氏は次のような発言をしている。
坪内 根源俳句は「俳句は片言に非ず」という主張であり実践だったのですが、それは俳句にとってはとても無理な、いわば俳句形式を虐使することだったと思います。その虐使が、ほんの少し格別に優れた作品、永田耕衣の<母死ねば今着給へる冬着欲し>(昭和25)、西東三鬼の<掘り出され裸の根株 雪が降る>(昭和24)などを残したのではないでしょうか。
『俳句研究』63・3(1996.03)
正確には坪内氏は席上におらず、のちに座談会原稿に追記した「誌上参加」のようだが、この「虐使」というニュアンスの微妙さが、私は気に入っている。
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ともあれ、俳句形式に対して愛憎入り交じった「虐使」を加えていく外山氏の成果がまとまって読めるようになったことを、まずは喜びたい。
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