2013年6月12日水曜日

甲子園とディベート


俳句甲子園の季節である。

と、書くと、「またか」とか「相変わらずか」という反応もかえってきそうだ。
私自身、スタッフとして働いているわけでもないし、熱心な観戦者というほどでもない。それでもやはり、「卒業生」としては、今、俳句甲子園がどうなっているのか、いつも頭のすみで気になっている。

関西予選は、今週の15日土曜日に龍谷大学に京都予選、翌16日にで大阪予選が開催される。
今年は初出場校(灘高校、伊丹高校)もあり、なかなか楽しみなところである。


2011年、もう2年前になるけれども、ひさびさに行った俳句甲子園本選で、私は次の様な感想を持った。
正直なところディベートの手法自体は、私の知っている頃とあまり変わらない印象でした。審査委員長・高野ムツオさんは「近年希な好勝負!」と昂奮されてまして、うーん、リップサービスもあるんだろうなぁとは思いつつ。もちろん洗練度というか、全体のレベルは向上しているのですが、相手のコメントを引き出しつつ自分のフィールドに持ち込むとか、笑いを取りつつ添削していく過程とか、懐かしいな、という感じ。 審査委員長の正木ゆう子さんが最後の挨拶でおっしゃっていましたが、ディベートに関してはもう一歩、別の展開がありそうな気がする。それが何か、具体的にはわからないですが。 

この記事ではぼかして書いているけれども、はっきり言って俳句甲子園のディベートは頭打ちになっていると思った。

もちろん、選手一人ひとりの実力(鑑賞力や知識量)は上がっているし、よりよいディベートをしようという努力が随所に見える。
観戦中は思わず引き込まれて応援してしまうし、フェアプレイに徹する高校生たちをリスペクトしてもいる。「洗練されている」という感想にも、偽りはない。

しかし、ディベートで交わされる応酬自体は、私がよく知っている第6~8回くらいの頃から、あまり変わっていないとも思う。

私見によれば、現在の俳句甲子園におけるディベートは、第6、7回あたりの、開成、高田、甲南、の3校によって磨かれた側面が大きい。

現在、その方法をもっとも洗練させている開成高校のディベートについては、同記事にも引いた野口裕さんのレポートで的確な分析がある。いくつか興味深い点を抜き出すと、



  • 句の解釈を「作者」側にさせることで、「作者の意図」を「強弁する」作者、というシチュエーションを作ることに成功している。
    句会形式では普通、選んだ側から句解をするので、作者が自分の意図は違った、と話しても「いやそうは読めませんよ、でも良い句ですよ、ぐらいの会話でけりがつく。そんな読みは認めません、私の意図はこうだったんですと、作者が言い張るのは例外に属する。」

  • 合評形式の句会では、よくある景ですよ、で済んでしまいそうな気もする。」やりとりについて、句の情景を説明したり、先行句がないことを指摘することで、直接答えることなくなんとなく句の存在意義を納得させてしまう。」
こう取り出すと開成高校のディベートは、形式をうまく利用し、流れをコントロールしていることがわかる。そして、どちらかといえば相手を論破するのではなく、「審査員」にディベート力を「見せる」意識が働いていることがわかる。




俳句甲子園というイベントの成功は、間違いなく「ディベート」という形式を取り入れたことにある。


ただ、良くも悪くも、「ディベート」技術の洗練によって、対戦相手との「鑑賞のやりとり」からは少し違う次元での「試合」になりつつある。
「出てきた句は忘れたが、サラリーマンがコンペでプレゼンしているみたいだった」 七曜堂:俳句甲子園を安全に語る方法
こうした感想が出てくるのも、故のないことではないだろう。

では、どうすればよいのか。


ツイッター上ではこんな意見が飛び交っていた。



さらにつづき→内容と「いい句は偶然でできることもあるが、いい読みは偶然では絶対にできない」というフレーズに思った。ディベートの代わりに「相手の句をいかによく読むか」を競ったらどうか。(俳句いきなり入門いい句を作り、いい読みをした方が勝ち
「相手をの句をいかによく読むか」を競う。
なるほど、と思う。

というか、本来の「句会」の在り方からすれば、そのほうが正道だ。

思いがけない「読み巧者」によって、見過ごしていた句が突然輝き出す。句会の大きな魅力は、そんな「読みの力」が発揮される瞬間である。

そもそもディベートによる評価軸も、相手を論破することにあるのではなく、相手を俳句をきちんと読解できているか、という「鑑賞力」が試されているのである。

(※「俳句甲子園の試合は「作品点」と「鑑賞点」とで競います。「作品点」は俳句の出来、「鑑賞点」は議論の内容を評価します。」松山俳句甲子園公式HP 俳句甲子園とは?



しかし、ことは容易ではない。

実見していないので観戦者のレポートに頼るしかないが、実際に、「相手を褒める」ディベートを実践したチームもいたのである。
以下は2009年の江渡華子によるレポート。
予選の時から気になっていたのは、松山中央のディベートの仕方だ。「○○をこう鑑賞しましたが、これでよろしいでしょうか」という言い方が多い。相手を褒めてしゃべり終わることがしばしば。相手の句の弱点を攻撃し、自分の句の良さをアピールするというディベートの観点からすると、いまいち何を言いたいのかわかりづらい。 
金子兜太先生が「私は審査は初めてだが、これは褒めあいのゲームなのか」とおっしゃるほどである。

この年、松山中央高校は開成高校、洛南高校を破って優勝している。
しかし、江渡はさらに、次のように指摘している。
俳句甲子園はあくまで俳句の大会であるため、俳句の出来の評価を中心とするものである。しかしながら、対戦をなぜ見せるかといえば、ディベートがあるからではないだろうか。予選から見ている中で、松山中央のディベートは、己の鑑賞を披露する方法だった。

印象的なやり取りが、決勝先鋒戦にあった。終始自分の鑑賞を披露するという形でディベートをする体制をとっていた松山中央だったが、「この鑑賞でよろしいでしょうか」との松山中央の発言に対して「そうとって頂いて結構です」のみの洛南の回答に、檀上は一瞬静まった。ディベートの時間は短い。だからこそ、少しでも時間があるのであれば自分の高校の句をアピールしたい。今までの対戦校はそう思っていたからこそ、質問とは言い難いそのディベート方法にも対応していたが、その鑑賞が特に問題なければ、返事は上記の洛南のもので充分なのである。けれど、それでは盛り上がらず、観客側にとって面白くない。
俳句甲子園の推移を知っている私としては、松山中央高校のディベートは、新しいディベートのスタイル(鑑賞力の披露)を目指したもの、と理解できる。
ちなみに松山中央高校を率いた顧問は櫛部天思氏。第3回大会では伯方高校を率いて優勝経験を持つ指導者であり、俳句甲子園では常連の名物顧問の一人だ。
おそらく、櫛部さんも新しいディベートスタイルにこだわった結果、つまり「勝ち負け」ではないディベートにこだわった成果の「褒めあいのゲーム」だったのではないか。

しかし、「よい鑑賞」を評価する基準というのは、かなり恣意的で難しい。


むろんその見極めは審査員の能力に期待されるところだが、それは初見の観客にとってはわかりづらく、実はきわめて「内向き」なイベントになってしまう危険があるのではないだろうか。




この稿に、結論はない。


私は俳句甲子園が好きだし、そして、俳句甲子園のディベートが、よりいい形で発展してくれることを望んでいる。


ただ、多くの高校生が悩んでいるように、その新しさの地平は、簡単に見えてこない。


だが少なくとも、「俳句甲子園のディベート」が、単純に議論の勝ち負けに終始するような、相手の論破や、評価上の勝ち点だけを目的にするようなものになってしまったなら、それはもう、「俳句」の敗北である。

ディベート形式による「鑑賞力」の見せ方を、どう充実させていくか。

俳句甲子園の可能性は、まだまだこれから、なのである。


※追記、2013.06.16
トゥゲッター 俳句甲子園のディベートについて



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